長宗我部元親の四国制覇 その26
『大友氏、伊予に進出』
湯築城の河野本家が東予・北予に蟠踞していたが、独力で勢威を持つことは困難な情勢になっ
てきた。
大友宗麟(1530-1587年)

周防の大内氏と豊後の大友氏が伊予に目をつけて、支配権を巡って争うようになり、そのうえ
東からは細川氏が圧迫を加えたので、河野氏としてはこれらの間に挟まって勢力を維持するに
苦しんだ。
特に大友氏は義鑑・宗麟の2代に渡って伊予への進出を企て、勢力の拡大をはかった。
義鑑は一条氏・宇都宮氏などと手を結び、南北朝時代から宇和郡に土着して黒瀬城を本拠とし
ていた西園寺氏とも盟約を結ぶなど、積極的な活動を続けた。
天文8年(1539年)、細川晴元が阿波・讃岐の兵を率いて東伊予地方に侵入を企て、川之
江方面を制圧した時、河野道生は大友宗麟に援助を求めたが、細川氏のことなきを得た。
このように伊予には大友氏の勢力が延びていった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
湯築城の河野本家が東予・北予に蟠踞していたが、独力で勢威を持つことは困難な情勢になっ
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大友宗麟(1530-1587年)

周防の大内氏と豊後の大友氏が伊予に目をつけて、支配権を巡って争うようになり、そのうえ
東からは細川氏が圧迫を加えたので、河野氏としてはこれらの間に挟まって勢力を維持するに
苦しんだ。
特に大友氏は義鑑・宗麟の2代に渡って伊予への進出を企て、勢力の拡大をはかった。
義鑑は一条氏・宇都宮氏などと手を結び、南北朝時代から宇和郡に土着して黒瀬城を本拠とし
ていた西園寺氏とも盟約を結ぶなど、積極的な活動を続けた。
天文8年(1539年)、細川晴元が阿波・讃岐の兵を率いて東伊予地方に侵入を企て、川之
江方面を制圧した時、河野道生は大友宗麟に援助を求めたが、細川氏のことなきを得た。
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