長宗我部元親の四国制覇 その27
『伊予の情勢』
大友宗麟は、さらに河野傘下にあった伊予水軍を収め、瀬戸内海西部の制海権を握ろうと暗躍
した。
大分駅前の宗麟公

また、たまたま起こった土佐の一条兼定と西園寺公広との紛争を利用して、大友氏の軍は南予
へ侵入したので、公広は驚き、宗麟と和睦した。
ときに、元亀3年(1572年)のことでした。
これより先、河野氏は大友氏の勢力が衰えてきた状況をみて、大友氏と結ぶことが有利である
と判断し、大友氏に近づいた。
河野氏にせよ、西園寺氏にせよ、しょせん地方権力者である限り、自主性を欠き、有力な大名
の援助によらなければ独自の立場を守ることは、なかなか困難であった。
やがて厳島の戦いで、村上水軍が毛利元就を援助したことによって、毛利氏と河野氏は互いに
接近し、提携するようになり、永禄元年(1557年)に起こった河野通直と宇都宮豊綱との
争いでは、通直は毛利氏に援助を要請している。
こうして河野氏は大内・大友・毛利と2転3転して後援者を求めてその勢力を維持してきたが、
なお宇都宮氏・西園寺氏とともに伊予を三分する豪族としての立場は十分保っていた。
このような時に、長宗我部元親の伊予への侵攻が始まったのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
大友宗麟は、さらに河野傘下にあった伊予水軍を収め、瀬戸内海西部の制海権を握ろうと暗躍
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へ侵入したので、公広は驚き、宗麟と和睦した。
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これより先、河野氏は大友氏の勢力が衰えてきた状況をみて、大友氏と結ぶことが有利である
と判断し、大友氏に近づいた。
河野氏にせよ、西園寺氏にせよ、しょせん地方権力者である限り、自主性を欠き、有力な大名
の援助によらなければ独自の立場を守ることは、なかなか困難であった。
やがて厳島の戦いで、村上水軍が毛利元就を援助したことによって、毛利氏と河野氏は互いに
接近し、提携するようになり、永禄元年(1557年)に起こった河野通直と宇都宮豊綱との
争いでは、通直は毛利氏に援助を要請している。
こうして河野氏は大内・大友・毛利と2転3転して後援者を求めてその勢力を維持してきたが、
なお宇都宮氏・西園寺氏とともに伊予を三分する豪族としての立場は十分保っていた。
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