長宗我部元親の四国制覇 その76
『河野氏危うし』
毛利輝元は桂元親に10月26日、次の手紙を送っている。
毛利輝元(1553-1625年)

去る19日の注進状、具(つぶさ)に披見せしめ候。黒潮の儀落去、是非に及ぼす候。併(し
か)し内々弱々敷(よわよわしき)趣(おもむき)の由に候条、申すに及ばず候。道後へ追々
注進せしむるの由肝要(かんよう)に候。平賀・木梨方の儀差渡し候。其の外南方(南方就正
)以下検使として明後日28日渡海に候。道後への使として、児三右(児玉元良)井又右之(
井上春忠)を進め置き候。其表加勢の儀、追々緩(ゆるがせ)無く候条、其心を得べく候。
其方長々辛労(しんろう)の上、此節別して心遣の段、察せしめ候、涯分(がいぶん)(=力
の及ぶかぎり)暖有るべからず候。迚(とて)も各々差渡し候間、詳(つく)し能(あた)は
ず候。謹言
このような輝元の励ましにもかかわらず、桂元親の苦戦は深刻となり、長宗我部軍は三間・板
島(宇和島)方面から次第に北上をはじめた。
こうなると河野氏も危うくなるし、これを援助する毛利氏も気が気でならなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
毛利輝元は桂元親に10月26日、次の手紙を送っている。
毛利輝元(1553-1625年)

去る19日の注進状、具(つぶさ)に披見せしめ候。黒潮の儀落去、是非に及ぼす候。併(し
か)し内々弱々敷(よわよわしき)趣(おもむき)の由に候条、申すに及ばず候。道後へ追々
注進せしむるの由肝要(かんよう)に候。平賀・木梨方の儀差渡し候。其の外南方(南方就正
)以下検使として明後日28日渡海に候。道後への使として、児三右(児玉元良)井又右之(
井上春忠)を進め置き候。其表加勢の儀、追々緩(ゆるがせ)無く候条、其心を得べく候。
其方長々辛労(しんろう)の上、此節別して心遣の段、察せしめ候、涯分(がいぶん)(=力
の及ぶかぎり)暖有るべからず候。迚(とて)も各々差渡し候間、詳(つく)し能(あた)は
ず候。謹言
このような輝元の励ましにもかかわらず、桂元親の苦戦は深刻となり、長宗我部軍は三間・板
島(宇和島)方面から次第に北上をはじめた。
こうなると河野氏も危うくなるし、これを援助する毛利氏も気が気でならなかった。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
- 関連記事
-
- 長宗我部元親の四国制覇 その78 (2020/04/30)
- 長宗我部元親の四国制覇 その77 (2020/04/29)
- 長宗我部元親の四国制覇 その76 (2020/04/28)
- 長宗我部元親の四国制覇 その75 (2020/04/27)
- 長宗我部元親の四国制覇 その74 (2020/04/26)
スポンサーサイト