石山合戦 その48
『鈴木孫一との対立』
雑賀衆を率いた紀ノ川下流域の雑賀の土豪衆たちは、いずれも本願寺門徒であったが、宮郷・
中川郷・南郷の「三組惣中」を率いて太田源三太夫と、雑賀庄の2組を支配する鈴木孫一と
の間には内紛抗争が絶えなかった。
顕如
この2つの勢力は「三日月の芝」と「36ヵ所の塩浜」の権利をめぐって、文明年間から一世紀
近くも争っていたという。
天正4年5月、石山籠城戦が開始されたときも。太田源三太夫や根来寺の杉の坊らは、織田信
長に通じていた。
根来寺周辺の門徒が本願寺方へ参加したのは、門徒と根来寺衆徒との間に対抗関係があったた
めである。
後生の安楽よりも現世の利害関係から、同一歩調をとることができなかったのです。
顕如もこんな事態を心配して
「たとい私的な遺恨があっても、今度のことはすべて親鸞聖人への報謝の思いを励ますことだ」
と諭しても効果はなかったという。
ランキングに参加しています
いつもありがとうございます。
<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
雑賀衆を率いた紀ノ川下流域の雑賀の土豪衆たちは、いずれも本願寺門徒であったが、宮郷・
中川郷・南郷の「三組惣中」を率いて太田源三太夫と、雑賀庄の2組を支配する鈴木孫一と
の間には内紛抗争が絶えなかった。
顕如
この2つの勢力は「三日月の芝」と「36ヵ所の塩浜」の権利をめぐって、文明年間から一世紀
近くも争っていたという。
天正4年5月、石山籠城戦が開始されたときも。太田源三太夫や根来寺の杉の坊らは、織田信
長に通じていた。
根来寺周辺の門徒が本願寺方へ参加したのは、門徒と根来寺衆徒との間に対抗関係があったた
めである。
後生の安楽よりも現世の利害関係から、同一歩調をとることができなかったのです。
顕如もこんな事態を心配して
「たとい私的な遺恨があっても、今度のことはすべて親鸞聖人への報謝の思いを励ますことだ」
と諭しても効果はなかったという。
ランキングに参加しています
いつもありがとうございます。
<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
- 関連記事
-
- 石山合戦 その50 (2020/07/09)
- 石山合戦 その49 (2020/07/08)
- 石山合戦 その48 (2020/07/07)
- 石山合戦 その47 (2020/07/06)
- 石山合戦 その46 (2020/07/05)
スポンサーサイト