石山合戦 その58
『石山本願寺の終焉』
主戦派の籠城はいつまでも続けられる筈はなかった。
7月に入ると兵庫・尼ヶ崎も陥落し、教如もついに大坂退去を決意せざるをえなくなった。
石山本願寺推定地

そこで、また朝廷の斡旋があり、7月17日に近衛前久の手を通じて、信長から講和条件を記し
た覚書と血判起請文が新門教如に渡された。
条件は、先に顕如に渡されたものと大差はないが、「町人を立て置く」という一項が加えられて
いるから、籠城派の背後には石山寺内町の不安があったと思われます。
明け渡しの期限は8月10日であるから、本願寺方は8月2日を退城の日と決めた。
この日は雑賀・淡路から数百艇の迎えの船が到着し、籠城していた人々は、それぞれの縁をたよ
って、クモの子を散らすように別れたという。
本願寺の華麗な伽藍は3日間にわたって燃え続け、ことごとく灰燼(かいじん)となった。
蓮如が開創してから85年、証如がここに本願寺を移してから49年、大法城も、終わりを告げ
た。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
主戦派の籠城はいつまでも続けられる筈はなかった。
7月に入ると兵庫・尼ヶ崎も陥落し、教如もついに大坂退去を決意せざるをえなくなった。
石山本願寺推定地

そこで、また朝廷の斡旋があり、7月17日に近衛前久の手を通じて、信長から講和条件を記し
た覚書と血判起請文が新門教如に渡された。
条件は、先に顕如に渡されたものと大差はないが、「町人を立て置く」という一項が加えられて
いるから、籠城派の背後には石山寺内町の不安があったと思われます。
明け渡しの期限は8月10日であるから、本願寺方は8月2日を退城の日と決めた。
この日は雑賀・淡路から数百艇の迎えの船が到着し、籠城していた人々は、それぞれの縁をたよ
って、クモの子を散らすように別れたという。
本願寺の華麗な伽藍は3日間にわたって燃え続け、ことごとく灰燼(かいじん)となった。
蓮如が開創してから85年、証如がここに本願寺を移してから49年、大法城も、終わりを告げ
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