奥羽の群雄割拠 その41
『南部氏と秋田氏の抗争 その8』
ついで永禄11年、安東愛季は浅利義正(勝頼)を檜山城中で謀殺し、浅利氏も安東氏に臣従した。
しかし、12年には南部高信・九戸政実が来襲し、鹿角は南部氏に奪い返された。
大館城

一方、津軽に逃れた浅利義正の子・頼平は、大浦為信の後援で天正12、14、15年と比内に侵
入したが、比内を攻略することはできなかった。
天正15年(1587年)安東愛季が死ぬと、子の実季が跡をついだが、12歳の年少であったた
め、一族の間に湊騒動とよぶ内乱が起こった。
26代の南部信直は、この内訌に乗じて翌16年鹿角から比内に出兵し、大光寺光親の先導で大館
城を占拠、比内を確保した。
南部氏の北信愛の子・秀愛を大館に置いたが、天正18年には秋田氏から攻撃を受け、撤退した。
実季は内乱鎮定の後、治城を檜山から湊(土崎)に移し、秋田氏を称した。
鹿角・比内の争奪は南北朝以来の長い懸案であったが、結局、比内は秋田氏、鹿角は南部氏の領有
となり、後に豊臣秀吉の奥州征討を迎えることになる。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
ついで永禄11年、安東愛季は浅利義正(勝頼)を檜山城中で謀殺し、浅利氏も安東氏に臣従した。
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入したが、比内を攻略することはできなかった。
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め、一族の間に湊騒動とよぶ内乱が起こった。
26代の南部信直は、この内訌に乗じて翌16年鹿角から比内に出兵し、大光寺光親の先導で大館
城を占拠、比内を確保した。
南部氏の北信愛の子・秀愛を大館に置いたが、天正18年には秋田氏から攻撃を受け、撤退した。
実季は内乱鎮定の後、治城を檜山から湊(土崎)に移し、秋田氏を称した。
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