奥羽の群雄割拠 その42
『大崎氏と葛西氏の抗争 その1』
北上川の下流、広大な仙台平野に成長した戦国大名は、大崎氏と葛西氏であった。
大崎地方には、鎌倉時代には渋谷・大掾(だいじょう)・泉田・四方田のいわゆる河内4頭と呼ば
れる地頭が配置されていたが、有力な存在ではなく、いわば豪族勢力の空白地帯であったから、大
崎氏はその特権的な地位を利用し、比較的たやすく勢力をうえつけることができた。
大崎氏の居城のひとつ「名生城」

しかし、戦国時代に入ると大崎氏は、北の栗原郡では直接葛西氏と境を接し、東方では深谷・山内
・首藤などの小領主の帰属をめぐり、葛西氏と対立しなければならなかった。
さらに南方では陸奥守護職を私称する伊達氏の勢力が北上し、緩衝地帯にある武石・粟野・留守・
国分などの小領主の帰属をめぐり、利害の対立が激しくなった。
そのうえ大崎氏は比較的新しい大名であったから、一族の分封も少なく、主従関係も緊密さを欠き、
権臣が対立して御家騒動を起こすなど、上からの統制力もやや弱体であった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
北上川の下流、広大な仙台平野に成長した戦国大名は、大崎氏と葛西氏であった。
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崎氏はその特権的な地位を利用し、比較的たやすく勢力をうえつけることができた。
大崎氏の居城のひとつ「名生城」

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・首藤などの小領主の帰属をめぐり、葛西氏と対立しなければならなかった。
さらに南方では陸奥守護職を私称する伊達氏の勢力が北上し、緩衝地帯にある武石・粟野・留守・
国分などの小領主の帰属をめぐり、利害の対立が激しくなった。
そのうえ大崎氏は比較的新しい大名であったから、一族の分封も少なく、主従関係も緊密さを欠き、
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