奥羽の群雄割拠 その47
『大崎氏と葛西氏の抗争 その6』
大崎義隆も同じように、領国制の確立に努力したと思われますが、この方は史実が伝わってないの
で、詳しいことはわかりません。
大崎義隆の墓(宮城県大崎市)

ただ天正16年(1588年)の内乱を見ると、義隆の寵臣から問題が起こり、領内は義隆派と岩
手沢城主・氏家弾正派とに分かれ対立した。
氏家弾正は伊達氏に内応して出兵を依頼し、大崎氏は分解寸前に追い込まれる。
これを見ると大崎氏の方は権臣ののさばりがはなはだしく、領主の支配力は弱体化していたのです。
これは伊達・葛西の同盟政策が功を奏した結果なのでしょう。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
大崎義隆も同じように、領国制の確立に努力したと思われますが、この方は史実が伝わってないの
で、詳しいことはわかりません。
大崎義隆の墓(宮城県大崎市)

ただ天正16年(1588年)の内乱を見ると、義隆の寵臣から問題が起こり、領内は義隆派と岩
手沢城主・氏家弾正派とに分かれ対立した。
氏家弾正は伊達氏に内応して出兵を依頼し、大崎氏は分解寸前に追い込まれる。
これを見ると大崎氏の方は権臣ののさばりがはなはだしく、領主の支配力は弱体化していたのです。
これは伊達・葛西の同盟政策が功を奏した結果なのでしょう。
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