奥羽の群雄割拠 その48
『大崎氏と葛西氏の抗争 その7』
葛西晴信と大崎義隆時代における、両氏衝突の主な事件は以下のようであった。
葛西晴信(1534-1597年)

*一関博物館HPより
晴信が葛西家を継いだのは永禄3年(1560年)であるが、同8年、12年と桃生郡方面で大
崎氏との間に合戦があり、元亀2年(1571年)には晴信・義隆ともに大軍を率いて三迫に出陣
した。
翌3年2月、つづいて天正元年(1573年)3月にも三迫で合戦があり、葛西方は多数の家臣を
動員、栗原郡の北部を占領した。
栗原郡は一、二、三迫に分かれ、三迫はその最北で、西磐井郡と境を接している。
磐井方面の葛西の勢力が、じりじりと南下してきたのでしょう。
三迫の占領により葛西氏では多数の家臣をこの地方に移住させた。
こうして三迫方面は一時小康を得たが、翌3月に入り、葛西氏の宗族で大身のひとり、本吉郡志津
川城主・本吉重継が反乱を起こし、晴信みずから出馬して平定するという事件が起きています。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
葛西晴信と大崎義隆時代における、両氏衝突の主な事件は以下のようであった。
葛西晴信(1534-1597年)

*一関博物館HPより
晴信が葛西家を継いだのは永禄3年(1560年)であるが、同8年、12年と桃生郡方面で大
崎氏との間に合戦があり、元亀2年(1571年)には晴信・義隆ともに大軍を率いて三迫に出陣
した。
翌3年2月、つづいて天正元年(1573年)3月にも三迫で合戦があり、葛西方は多数の家臣を
動員、栗原郡の北部を占領した。
栗原郡は一、二、三迫に分かれ、三迫はその最北で、西磐井郡と境を接している。
磐井方面の葛西の勢力が、じりじりと南下してきたのでしょう。
三迫の占領により葛西氏では多数の家臣をこの地方に移住させた。
こうして三迫方面は一時小康を得たが、翌3月に入り、葛西氏の宗族で大身のひとり、本吉郡志津
川城主・本吉重継が反乱を起こし、晴信みずから出馬して平定するという事件が起きています。
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