奥羽の群雄割拠 その49
『大崎氏と葛西氏の抗争 その8』
天正7年(1579年)になり、三迫岩ヶ崎(鶴丸)城主・富沢直綱は磐井郡流郷の旗頭、峠城主
・寺崎良継と争いが生じ、大崎氏の支援のもと反乱を起こした。
富沢氏は葛西氏の支流で、古くから三迫・西磐井に勢力を占めていた、いわば外様格の家臣であっ
た。
岩ヶ崎(鶴丸)城

葛西晴信は流・東磐井・登米・本吉・伊沢方面の館主を多数動員して反乱を鎮定し、富沢氏の所領
を削り、有巧の将士に加増を行った。
この時の感状が多数現存しているそうです。
天正9年(1581年)には伊沢郡の大身・柏山氏に内紛があり、衝突を生じて柏山氏は衰えた。
翌年、南部氏は伊沢の混乱に乗じ、和賀氏の河埼城を攻撃、葛西軍は和賀氏を助けている。
天正13年8月、富沢氏は再び三迫で反乱し、今度は流郷旗頭の寺崎氏が敗北した。
この頃から葛西氏の領内には内乱が続発し、領主の統制力に混乱があらわれてきた。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
天正7年(1579年)になり、三迫岩ヶ崎(鶴丸)城主・富沢直綱は磐井郡流郷の旗頭、峠城主
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富沢氏は葛西氏の支流で、古くから三迫・西磐井に勢力を占めていた、いわば外様格の家臣であっ
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を削り、有巧の将士に加増を行った。
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天正9年(1581年)には伊沢郡の大身・柏山氏に内紛があり、衝突を生じて柏山氏は衰えた。
翌年、南部氏は伊沢の混乱に乗じ、和賀氏の河埼城を攻撃、葛西軍は和賀氏を助けている。
天正13年8月、富沢氏は再び三迫で反乱し、今度は流郷旗頭の寺崎氏が敗北した。
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