奥羽の群雄割拠 その54
『伊達氏をめぐる抗争 その4』
伊達稙宗は、まれに見る外交手腕に長けていた人物で、子の小僧丸義宜を大崎氏に、牛猿丸晴胤を
葛西氏に、綱宗を亘理氏の婿養子とし、娘は相馬顕胤・芦名盛氏・二階堂輝行・田村隆顕の室に嫁
がせています。
伊達氏14代当主・伊達稙宗(1488-1565年)

さらに実元が越後の太守の後継者となるなら、その婚姻関係がおよぶ範囲は広大となり、伊達氏の
名望もおのずから高まる筈であったのです。
しかし、このように外に手を広げる政策には、内部に批判が生じるのは当然で、これが晴宗擁立の
運動になったと思われます。
稙宗幽閉の報が伝わると、相馬・田村・岩瀬・会津の諸軍は出兵して稙宗を救い出し、これから西
山城の晴宗と懸田城の稙宗とが、それぞれ西党、東党と称して党派を結成し、たがいに対立抗争し
た。
この対立は伊達氏の家臣を両分したばかりでなく、伊達氏と関係ある隣国の大名がこれに参加し、
さらに参加した大名の領内でも、大崎・留守・国分氏のようになかば外様化していた大名において
は、両派に分裂したという。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
伊達稙宗は、まれに見る外交手腕に長けていた人物で、子の小僧丸義宜を大崎氏に、牛猿丸晴胤を
葛西氏に、綱宗を亘理氏の婿養子とし、娘は相馬顕胤・芦名盛氏・二階堂輝行・田村隆顕の室に嫁
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伊達氏14代当主・伊達稙宗(1488-1565年)

さらに実元が越後の太守の後継者となるなら、その婚姻関係がおよぶ範囲は広大となり、伊達氏の
名望もおのずから高まる筈であったのです。
しかし、このように外に手を広げる政策には、内部に批判が生じるのは当然で、これが晴宗擁立の
運動になったと思われます。
稙宗幽閉の報が伝わると、相馬・田村・岩瀬・会津の諸軍は出兵して稙宗を救い出し、これから西
山城の晴宗と懸田城の稙宗とが、それぞれ西党、東党と称して党派を結成し、たがいに対立抗争し
た。
この対立は伊達氏の家臣を両分したばかりでなく、伊達氏と関係ある隣国の大名がこれに参加し、
さらに参加した大名の領内でも、大崎・留守・国分氏のようになかば外様化していた大名において
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