奥羽の群雄割拠 その55
『伊達氏をめぐる抗争 その5』
戦線は西山・懸田争奪の中央戦線、郡山・本宮付近の南部戦線、柴田・刈田方面の北部戦線に分
かれ、中央では相馬顕胤・亘理宗隆・懸田俊宗らが伊達晴宗と対抗し、天文15年(1546年)
晴宗は刈田郡白石に移り、伊達稙宗が西山を回復した。
伊達家15代当主・伊達晴宗(1519-1578年)

北部戦線では稙宗方の大崎義宜が活躍、晴宗も片倉氏の白石城を中心に、さかんに安堵状を発し
て人心の収監につとめた。
南部戦線では、本宮宗頼・芦名盛氏・岩瀬重隆が晴宗方に立って活動した。
しかし、天文17年頃になると、大勢は晴宗方に有利に展開した。
留守景宗(晴宗方)が千厩小太郎に与えた手紙にも
「南方の戦いは日を追って晴宗方の勝利に傾き、田村は半々、塩松は全部が晴宗方となる。長井
は北条鮎貝以外は晴宗方、北方でも泉田が帰服し、大崎・黒川両氏も分裂、最上義守は晴信と同
心、葛西領内においても柏山氏が反旗をひるがえし、晴宗に味方の者が出ている」
と述べている。
こうして同年9月、将軍義晴の扱いで和議が成立し、稙宗は伊具郡丸森に隠居した。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
戦線は西山・懸田争奪の中央戦線、郡山・本宮付近の南部戦線、柴田・刈田方面の北部戦線に分
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伊達家15代当主・伊達晴宗(1519-1578年)

北部戦線では稙宗方の大崎義宜が活躍、晴宗も片倉氏の白石城を中心に、さかんに安堵状を発し
て人心の収監につとめた。
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しかし、天文17年頃になると、大勢は晴宗方に有利に展開した。
留守景宗(晴宗方)が千厩小太郎に与えた手紙にも
「南方の戦いは日を追って晴宗方の勝利に傾き、田村は半々、塩松は全部が晴宗方となる。長井
は北条鮎貝以外は晴宗方、北方でも泉田が帰服し、大崎・黒川両氏も分裂、最上義守は晴信と同
心、葛西領内においても柏山氏が反旗をひるがえし、晴宗に味方の者が出ている」
と述べている。
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