奥羽の群雄割拠 その58
『伊達氏をめぐる抗争 その8』
伊達輝宗は先代にひき続き治府を米沢におき、北は最上氏の内訌を調停、南は塩松の大内定綱を攻
め、弟・盛重に国分氏をつがせ、外交的には織田信長・徳川家康と通じ、とくに信長のためには、
要請によって上杉氏と戦いを交えたりしています。
伊達氏16代当主・伊達輝宗(1544-1585年)

しかし、彼が最も力を尽くしたのは、相馬義胤との間に展開された、亘理・伊具両郡の争奪戦であ
った。
相馬氏と輝宗の争いは、永禄11年(1568年)伊達郡小島における対盛胤との合戦、天正4、
5年における伊具郡小斉・金山・丸森・黒木合戦で、これも相手は盛胤であった。
ついで同9年より12年にかけての相馬義胤との伊具郡における対戦したる。
輝宗は二本松で横死しているから、相馬合戦は彼の生涯の大戦闘であったのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
伊達輝宗は先代にひき続き治府を米沢におき、北は最上氏の内訌を調停、南は塩松の大内定綱を攻
め、弟・盛重に国分氏をつがせ、外交的には織田信長・徳川家康と通じ、とくに信長のためには、
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伊達氏16代当主・伊達輝宗(1544-1585年)

しかし、彼が最も力を尽くしたのは、相馬義胤との間に展開された、亘理・伊具両郡の争奪戦であ
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相馬氏と輝宗の争いは、永禄11年(1568年)伊達郡小島における対盛胤との合戦、天正4、
5年における伊具郡小斉・金山・丸森・黒木合戦で、これも相手は盛胤であった。
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