奥羽の群雄割拠 その92
『伊達政宗、人取橋の戦い その3』
安達郡塩松の城主・大内定綱は、伊達・芦名の間を往来して反復していたが、天正13年(158
5年)9月、ついに二本松の畠山氏に頼った。
畠山氏は奥州探題の末裔として、大崎氏とならぶ名家であったが、当時は勢力も衰え、安達郡の一
部を領するに過ぎなかった。
伊達輝宗

当主・義継は伊達氏とは比較的親近の間柄であったが、定綱の敗北に恐れをいだき、同年10月6
日、伊達氏に投降し、同8日、伊達輝宗の陣営に家臣50余人を率いて、帰服の御礼に参上した。
ところが、面会が終わっての帰途、にわかに逆心を起こし、輝宗を虜にして二本松に連れ去ろうと
し、刀を脇腹に突き付けて、阿武隈河畔の高田原まで連行した。
輝宗は尾行してきた家臣に
「我とともに義継を討て」
叫び、伊達氏の家臣は、主人もろとも50余人の二本松勢をみな殺しにし、義継の首級を挙げた。
輝宗は時に42歳。
政宗が急報によって駆けつけた時は、父はむなしく屍となっていた。
政宗の仙道攻略は、父の横死という、思いがけない惨事をもって幕が切って落とされたのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
安達郡塩松の城主・大内定綱は、伊達・芦名の間を往来して反復していたが、天正13年(158
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畠山氏は奥州探題の末裔として、大崎氏とならぶ名家であったが、当時は勢力も衰え、安達郡の一
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伊達輝宗

当主・義継は伊達氏とは比較的親近の間柄であったが、定綱の敗北に恐れをいだき、同年10月6
日、伊達氏に投降し、同8日、伊達輝宗の陣営に家臣50余人を率いて、帰服の御礼に参上した。
ところが、面会が終わっての帰途、にわかに逆心を起こし、輝宗を虜にして二本松に連れ去ろうと
し、刀を脇腹に突き付けて、阿武隈河畔の高田原まで連行した。
輝宗は尾行してきた家臣に
「我とともに義継を討て」
叫び、伊達氏の家臣は、主人もろとも50余人の二本松勢をみな殺しにし、義継の首級を挙げた。
輝宗は時に42歳。
政宗が急報によって駆けつけた時は、父はむなしく屍となっていた。
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