島津義弘の関ヶ原 その173
『必死は必生につながる その9』
銃声とどろく関ケ原の戦場で、義弘は一人沈思していた。
心ならずも西軍方についたののも、石田三成との因縁だった。
石田三成(1560-1600年)

かつて義弘が太閤秀吉の軍門に下ったとき、その折衝役となったのが三成であった。
秀吉の前で敗将の義弘をねぎらい、まるで島津方の忠臣のごとく、三成は才槌頭をふりながら熱弁
した。
「島津に名君多しと聞きおよびまする。南九州の安定には、鎌倉期より源頼朝さまの尊い血をひく
島津一族の力が必要と存ずる」
降伏した島津の健闘を讃えられ、さほどの知行も削られずに済んだのも、若い三成の助言によるも
のであった。
三成はつねに秀吉の側にひかえ、取り次ぎ役をつとめていた。
才知に恵まれ、職務にも忠実だった。
暴君の秀吉に寵愛されたのも、その誠意を買われたからであったのでしょう。
三成は日夜の務めに励んだ。
暴風雨の夜半に登城して、すぐに翌朝には壁襖などの破損個所を修復した。
その精励ぶりは、信長に仕えていたころの若い秀吉と同じであった。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
銃声とどろく関ケ原の戦場で、義弘は一人沈思していた。
心ならずも西軍方についたののも、石田三成との因縁だった。
石田三成(1560-1600年)

かつて義弘が太閤秀吉の軍門に下ったとき、その折衝役となったのが三成であった。
秀吉の前で敗将の義弘をねぎらい、まるで島津方の忠臣のごとく、三成は才槌頭をふりながら熱弁
した。
「島津に名君多しと聞きおよびまする。南九州の安定には、鎌倉期より源頼朝さまの尊い血をひく
島津一族の力が必要と存ずる」
降伏した島津の健闘を讃えられ、さほどの知行も削られずに済んだのも、若い三成の助言によるも
のであった。
三成はつねに秀吉の側にひかえ、取り次ぎ役をつとめていた。
才知に恵まれ、職務にも忠実だった。
暴君の秀吉に寵愛されたのも、その誠意を買われたからであったのでしょう。
三成は日夜の務めに励んだ。
暴風雨の夜半に登城して、すぐに翌朝には壁襖などの破損個所を修復した。
その精励ぶりは、信長に仕えていたころの若い秀吉と同じであった。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
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