島津義弘の関ヶ原 その176
『必死は必生につながる その12』
聞く耳はもたぬ。義弘は西軍総参謀の三成を見限っている。島津の将兵たちの心も西軍から離れてい
た。
島津義弘(1535ー1619年)

開戦にいたる軍議において、動員兵の少ない島津は軽んじられた。
前哨戦においても、島津隊は墨俣の最前線に置き去りにされた。
義弘が奉じた『家康陣夜襲』の奇策も、田舎戦法にすぎぬと嘲られた。
情におぼれ、将としての三成の資質を見誤った。しょせん三成は、秀吉に仕える忠臣にすぎなかった。
百戦錬磨の武将連を束ね、その上に立つには了見がせますぎる。
何よりも不動心が足りなかった。
悔やんでもおそい。
すでにサイは投げられ、東西両軍は血戦のさなかにある。長くは傍観できない。
いずれは島津陣営にも東軍の矢弾がとんでくる。
ランキングに参加しています

いつもありがとうございます。

<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
聞く耳はもたぬ。義弘は西軍総参謀の三成を見限っている。島津の将兵たちの心も西軍から離れてい
た。
島津義弘(1535ー1619年)

開戦にいたる軍議において、動員兵の少ない島津は軽んじられた。
前哨戦においても、島津隊は墨俣の最前線に置き去りにされた。
義弘が奉じた『家康陣夜襲』の奇策も、田舎戦法にすぎぬと嘲られた。
情におぼれ、将としての三成の資質を見誤った。しょせん三成は、秀吉に仕える忠臣にすぎなかった。
百戦錬磨の武将連を束ね、その上に立つには了見がせますぎる。
何よりも不動心が足りなかった。
悔やんでもおそい。
すでにサイは投げられ、東西両軍は血戦のさなかにある。長くは傍観できない。
いずれは島津陣営にも東軍の矢弾がとんでくる。
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<参考文献:島津義弘(加野厚志・Wikipedia>
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