賤ヶ岳の戦い
『賤ヶ岳の戦い』
柴田勝家は堂木の砦を守る山路正国に寝返り工作を行なった
正国は もともと勝家の家臣で常々豊臣秀吉から「勝家に裏切るのでは?」と疑われていることを
不満に思っていたので 勝家から「こちらにつけば丸岡城12万石を与える」と誘いをかけられ 二つ
返事で応じた
丸岡城(写真は、平成21年9月20日に撮ったものです。)
日本で一番短い手紙『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』で有名ですね。

<クリックで拡大します>
佐久間盛政は 正国から秀吉が岐阜攻めで秀吉が不在であることと大岩山の砦が手薄であることを
聞き「今がチャンス」と勝家に攻撃を願い出た
これは秀吉が仕組んだ罠であった 最前線の正国が裏切るのも計算のうえであり 正国が大岩山の
守りが手薄であることを告げれば 勝家軍が動き出すことも先刻承知であった
ターゲットは血気にはやる盛政 手柄を焦って自陣の奥深くまで攻め入ってくれば網にかかった魚
も同然であった
佐久間盛政(1554-1583年)

戦歴の武将・勝家は秀吉が罠を仕掛けたことにいち早く気づいたが 盛政の再三にわたる出陣要請
に根負けし 大岩山攻略後直ちに兵を退くことを条件に出兵を許した
大岩山を陥落させた盛政は勢いに乗り賤ヶ岳砦の攻撃を開始した
勝家は慌てて使者を何度も遣わし 戻って来るよう命令したが緒戦に勝利した盛政は「伯父も臆病
になったものだと もう我らは勝ったも同然だ」と聞く耳を持たず賤ヶ岳を動かなかった
大垣にいた秀吉は「今日中に木之本に戻ることができれば大丈夫だが 明日になれば手遅れになって
しまう」というのが秀吉の判断であった 秀吉軍は13里の道のりを5時間で駆け抜け木之本に到着した
秀吉軍の到着を知った盛政は慌てて総退却を命じた
しかし 秀吉は盛政軍の退却を知るやいなや追撃を命じた 盛政軍は踏みとどまって善戦した
盛政軍を支援するため勝家の甥・柴田勝政も到着し両軍譲らず大激戦となった それでも時間が経つ
につれて秀吉軍がジワジワと優勢になった
茂山の砦を守っていた前田利家・利長親子が突然退却を始めた 金森長近・不破勝光も後に続いた
この直後 利家らに前進を遮られていた蜂須賀家政・木村重茲らが一気に押し寄せたため 盛政は
ひとたまりもなかった
前田利家(1539-1599年) 前田利長(1562-1614年)

勢いに乗った秀吉軍は敗走する盛政軍を追撃し 勝家が守る狐塚の本陣に殺到し散々に討ち破った
完全に「勝負あった!」である
勝家はここで最終決戦を挑み 討ち死にする覚悟を決めた
重臣たちに「ひとまず越前に戻って兵を立て直すほうが得策」と諌められたが 「越前に戻ったところ
で勝てる見込みがないのは同じ 逃げて末代まで笑い者になるくらいなら ここで秀吉と最後の一戦
をして華々しく討ち死にするのがまことの武士というもの」と言い張った(三成くんとは随分違いますね!)
だが 小姓頭の毛受勝助が「ここで殿が名もない雑兵の手にかかって討ち死にすることこそ末代の恥
どうか北の庄城に引き揚げ 静かにご自害ください ここは私が必ず敵を食い止めます」と涙ながらに
訴えたので 勝家も涙を流してうなずいた
ちなみに この合戦で一番槍の巧名を挙げた福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・糟谷武則・
平野長泰・片桐且元の七武将が秀吉から感状を受け恩賞を貰った 世にいう「賤ヶ岳の七本槍」です
ご存知のとおり正則と清正は“ねね”が少年時代から手塩にかけて育てた子飼いの武将です
足軽からの成り上がりで譜代の家来を持たなかった秀吉のために “ねね”が身内同然に育てた武将
たちが天下分け目の合戦でめざましい活躍を見せたのです 秀吉の天下獲りは“ねね”の内助の功に
支えられていたのです
七本槍のうち 安治を除く6人が徳川時代に改易処分を受けています…

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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 縁切寺で女たちを支援
残党狩りに捕まるが、幼い女児ということで死を免れ鎌倉の尼寺・東慶寺で監視付き
で育てられています。その後、住持となり千姫の援助を受け離婚したい女たちを何百人
も助け37歳で世を去っています。
≪本日の問題≫
本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。
柴田勝家は堂木の砦を守る山路正国に寝返り工作を行なった
正国は もともと勝家の家臣で常々豊臣秀吉から「勝家に裏切るのでは?」と疑われていることを
不満に思っていたので 勝家から「こちらにつけば丸岡城12万石を与える」と誘いをかけられ 二つ
返事で応じた
丸岡城(写真は、平成21年9月20日に撮ったものです。)
日本で一番短い手紙『一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥せ』で有名ですね。

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佐久間盛政は 正国から秀吉が岐阜攻めで秀吉が不在であることと大岩山の砦が手薄であることを
聞き「今がチャンス」と勝家に攻撃を願い出た
これは秀吉が仕組んだ罠であった 最前線の正国が裏切るのも計算のうえであり 正国が大岩山の
守りが手薄であることを告げれば 勝家軍が動き出すことも先刻承知であった
ターゲットは血気にはやる盛政 手柄を焦って自陣の奥深くまで攻め入ってくれば網にかかった魚
も同然であった
佐久間盛政(1554-1583年)

戦歴の武将・勝家は秀吉が罠を仕掛けたことにいち早く気づいたが 盛政の再三にわたる出陣要請
に根負けし 大岩山攻略後直ちに兵を退くことを条件に出兵を許した
大岩山を陥落させた盛政は勢いに乗り賤ヶ岳砦の攻撃を開始した
勝家は慌てて使者を何度も遣わし 戻って来るよう命令したが緒戦に勝利した盛政は「伯父も臆病
になったものだと もう我らは勝ったも同然だ」と聞く耳を持たず賤ヶ岳を動かなかった
大垣にいた秀吉は「今日中に木之本に戻ることができれば大丈夫だが 明日になれば手遅れになって
しまう」というのが秀吉の判断であった 秀吉軍は13里の道のりを5時間で駆け抜け木之本に到着した
秀吉軍の到着を知った盛政は慌てて総退却を命じた
しかし 秀吉は盛政軍の退却を知るやいなや追撃を命じた 盛政軍は踏みとどまって善戦した
盛政軍を支援するため勝家の甥・柴田勝政も到着し両軍譲らず大激戦となった それでも時間が経つ
につれて秀吉軍がジワジワと優勢になった
茂山の砦を守っていた前田利家・利長親子が突然退却を始めた 金森長近・不破勝光も後に続いた
この直後 利家らに前進を遮られていた蜂須賀家政・木村重茲らが一気に押し寄せたため 盛政は
ひとたまりもなかった
前田利家(1539-1599年) 前田利長(1562-1614年)


勢いに乗った秀吉軍は敗走する盛政軍を追撃し 勝家が守る狐塚の本陣に殺到し散々に討ち破った
完全に「勝負あった!」である
勝家はここで最終決戦を挑み 討ち死にする覚悟を決めた
重臣たちに「ひとまず越前に戻って兵を立て直すほうが得策」と諌められたが 「越前に戻ったところ
で勝てる見込みがないのは同じ 逃げて末代まで笑い者になるくらいなら ここで秀吉と最後の一戦
をして華々しく討ち死にするのがまことの武士というもの」と言い張った(三成くんとは随分違いますね!)
だが 小姓頭の毛受勝助が「ここで殿が名もない雑兵の手にかかって討ち死にすることこそ末代の恥
どうか北の庄城に引き揚げ 静かにご自害ください ここは私が必ず敵を食い止めます」と涙ながらに
訴えたので 勝家も涙を流してうなずいた
ちなみに この合戦で一番槍の巧名を挙げた福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・糟谷武則・
平野長泰・片桐且元の七武将が秀吉から感状を受け恩賞を貰った 世にいう「賤ヶ岳の七本槍」です
ご存知のとおり正則と清正は“ねね”が少年時代から手塩にかけて育てた子飼いの武将です
足軽からの成り上がりで譜代の家来を持たなかった秀吉のために “ねね”が身内同然に育てた武将
たちが天下分け目の合戦でめざましい活躍を見せたのです 秀吉の天下獲りは“ねね”の内助の功に
支えられていたのです
七本槍のうち 安治を除く6人が徳川時代に改易処分を受けています…

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 縁切寺で女たちを支援
残党狩りに捕まるが、幼い女児ということで死を免れ鎌倉の尼寺・東慶寺で監視付き
で育てられています。その後、住持となり千姫の援助を受け離婚したい女たちを何百人
も助け37歳で世を去っています。
≪本日の問題≫
本記事は「豊臣家を滅ぼしたのは北政所だった!」(ぶんか社文庫)を要約して記事にしております。
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毎々面白く
毎々、面白く拝見しています。
ijin さま
> 毎々、面白く拝見しています。
こんにちわ、
コメントありがとうございます。
特定の武将にこだわりませんが、戦国武将が大好きです。^^
こんにちわ、
コメントありがとうございます。
特定の武将にこだわりませんが、戦国武将が大好きです。^^