徳川家光 その35
『お取合』
家光は小心で、どもりで、ものを言おうとする時は酒を飲んで、いくらか口がきけるようになった
人であったという。
20歳頃から元気がよくなったと伝えられますが、それでも諸大名が参勤交代する時には、出入り
には必ず将軍に謁見してあいさつをし、将軍もこれに返事するのですが、その際はいつも酒井忠勝
(若狭小浜藩主)が「お取合」としてついていた。
酒井忠勝(1587-1662年)

お取合とは助手であり、助手がついてなければ、適当な受け答えができなかったのです。
こんな家光が、外様大名にたんかを切って、大見得が切れたのは、裏に演出者がいたからであろう
とは、容易に推察されます。
その演出者は誰なのでしょう。
土井利勝あたりではないのでしょうか。
利勝はなかなかの権謀家です。
この以前、秀忠の時代には計略にかけて千姫事件の坂崎出羽守を片付けており、この以後には家
光のかつての有力な競争者であった忠長を殺して家光を安心させ、その数年後に大老に任ぜられ
ています。
その利勝にとって、家光に芝居をさせて、幕府をこわがっている外様大名らの荒ぎもをひしぐくら
いのことは、何でもないことであったのでしょう。
こんな次第であるので、将軍職就任の始めに、外様大名らに恫喝した事実をもって、家光の英遇を
証明することはできないのでしょう。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
家光は小心で、どもりで、ものを言おうとする時は酒を飲んで、いくらか口がきけるようになった
人であったという。
20歳頃から元気がよくなったと伝えられますが、それでも諸大名が参勤交代する時には、出入り
には必ず将軍に謁見してあいさつをし、将軍もこれに返事するのですが、その際はいつも酒井忠勝
(若狭小浜藩主)が「お取合」としてついていた。
酒井忠勝(1587-1662年)

お取合とは助手であり、助手がついてなければ、適当な受け答えができなかったのです。
こんな家光が、外様大名にたんかを切って、大見得が切れたのは、裏に演出者がいたからであろう
とは、容易に推察されます。
その演出者は誰なのでしょう。
土井利勝あたりではないのでしょうか。
利勝はなかなかの権謀家です。
この以前、秀忠の時代には計略にかけて千姫事件の坂崎出羽守を片付けており、この以後には家
光のかつての有力な競争者であった忠長を殺して家光を安心させ、その数年後に大老に任ぜられ
ています。
その利勝にとって、家光に芝居をさせて、幕府をこわがっている外様大名らの荒ぎもをひしぐくら
いのことは、何でもないことであったのでしょう。
こんな次第であるので、将軍職就任の始めに、外様大名らに恫喝した事実をもって、家光の英遇を
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