徳川家光 その40
『おふり』
お福は『おふり』を大奥に入れて、家光に提供したといいますが、おふりが大奥勤めになったのは寛
永3年3月といいますから、枕席に侍するようになったのは、数年あとのようです。
家光はお福の言うことだから、ちょいちょい用いたらしいが、依然として同性に興味を示していたと
いう。
慶光院(伊勢市)

おふりが寛永14年3月5日に千代姫を生むと、もう用事はすんだとばかりに、男色専門になった。
ところが、千代姫を生んだ翌々年の寛永16年3月に、伊勢の慶光院の女住職が新しくあと目を相続
したお礼のために江戸に来て、家光に拝謁した。
伊勢の慶光院は禅寺だが尼寺です。
この寺は代々伊勢神宮を崇敬して、戦国時代に神宮の式年造営も思うにまかせなかった時期に、造営
に尽力し、また信長、秀吉、家康の時の権力者ともうまく結びついたので、これらの権力者から出す
神宮造営の朱印状は、この頃までは慶光院あてに下付されるほど重んぜられていた。
この時住職になった尼さんは、その素性は六条宰相有純の姫君で、7歳の時から慶光院に入室して得
度して、この時16歳、6代目の住職となったので、お礼のために江戸に下って来たのでした。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎(武将列伝)>
お福は『おふり』を大奥に入れて、家光に提供したといいますが、おふりが大奥勤めになったのは寛
永3年3月といいますから、枕席に侍するようになったのは、数年あとのようです。
家光はお福の言うことだから、ちょいちょい用いたらしいが、依然として同性に興味を示していたと
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慶光院(伊勢市)

おふりが寛永14年3月5日に千代姫を生むと、もう用事はすんだとばかりに、男色専門になった。
ところが、千代姫を生んだ翌々年の寛永16年3月に、伊勢の慶光院の女住職が新しくあと目を相続
したお礼のために江戸に来て、家光に拝謁した。
伊勢の慶光院は禅寺だが尼寺です。
この寺は代々伊勢神宮を崇敬して、戦国時代に神宮の式年造営も思うにまかせなかった時期に、造営
に尽力し、また信長、秀吉、家康の時の権力者ともうまく結びついたので、これらの権力者から出す
神宮造営の朱印状は、この頃までは慶光院あてに下付されるほど重んぜられていた。
この時住職になった尼さんは、その素性は六条宰相有純の姫君で、7歳の時から慶光院に入室して得
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