加藤清正 Ⅱ その47
『幾らでも人は欲しい』
『忠臣は二君につかえない』という武士道徳は、江戸時代になって儒教道徳が武士の行動を律する
最も強いモラルになってからのことで、江戸時代初期以前の武士のものではありません。
従って、ある大名が滅んで、新しい大名がその地に来ると、滅んだ大名の遺臣らは、よほど特別な
事情がないかぎり、新しい大名に召し抱えられることを希望する。
佐吉(三成)が仕えていたという観音寺

石田家は京極家を牢人したとはいえ、先祖伝来の土地が相当あるので、生活に困るということはな
かったが、三成は優れた才気があって、家を出て、仕官することを望んだので、父の正継もこれを
許したという。
長浜在の寺の住職に頼んで、推薦して貰ったという。
「その者次第じゃな。わしもうんと大身になったならば、少々阿保でも気慰みに飼うつもりにして
いるが、今はそんなおごりは出来ぬ。武勇優れているか、知恵才覚がさえているか、心掛けがよい
か、でなければ、ほうしゅうない。とりえさえあれば、幾らでも人は欲しいぞ」
「知恵も優れています。また、たいそう器量よしでござる。色白く目もと涼やか、唇は花のようで」
この時代の武将は、殆んどが男色の愛好家だったのです。
真から信用できる者を左右に持っていないと生命の危険があったからだと、古い書物にあります。
ともあれ、そうであったので、和尚さんはこう言ったのです。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
『忠臣は二君につかえない』という武士道徳は、江戸時代になって儒教道徳が武士の行動を律する
最も強いモラルになってからのことで、江戸時代初期以前の武士のものではありません。
従って、ある大名が滅んで、新しい大名がその地に来ると、滅んだ大名の遺臣らは、よほど特別な
事情がないかぎり、新しい大名に召し抱えられることを希望する。
佐吉(三成)が仕えていたという観音寺

石田家は京極家を牢人したとはいえ、先祖伝来の土地が相当あるので、生活に困るということはな
かったが、三成は優れた才気があって、家を出て、仕官することを望んだので、父の正継もこれを
許したという。
長浜在の寺の住職に頼んで、推薦して貰ったという。
「その者次第じゃな。わしもうんと大身になったならば、少々阿保でも気慰みに飼うつもりにして
いるが、今はそんなおごりは出来ぬ。武勇優れているか、知恵才覚がさえているか、心掛けがよい
か、でなければ、ほうしゅうない。とりえさえあれば、幾らでも人は欲しいぞ」
「知恵も優れています。また、たいそう器量よしでござる。色白く目もと涼やか、唇は花のようで」
この時代の武将は、殆んどが男色の愛好家だったのです。
真から信用できる者を左右に持っていないと生命の危険があったからだと、古い書物にあります。
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<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
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