加藤清正 Ⅱ その86
『鹿之助は西方へ』
尼子勝久は毛利勢から検使の出頭を求めて、見事に切腹した。
27歳という若さであった。
尼子勝久追悼碑

鹿之助は士卒とともに許されて城を出たが、毛利家では
「そなたは聞こえる勇士であるから、召し抱えて5千石の知行をあてがおう」
と言って、西の方に連れて行ったという。
織田家の諸隊では、色々な批評が行われた。
「鹿之助が所行心得がたし、生涯の名節がこれで汚れた」
という者もあり
「いやいや、そう即断してはならぬ。鹿之助ほどの勇士、必ず思う子細があろう」
という者もあってうわさの花が咲いた。
鹿之助の所行についての批判は、秀吉の近習の間でも行われ、市松は
「鹿之助殿の尼子勝久殿に言われた言葉によって判断すれば、鹿之助殿は出来るならば、毛利の当
主・輝元を、さらずば吉川元春か、小早川隆景を討取って、せめてもの尼子氏累代の無念を晴らそ
うと心掛けて、惜しからぬ命を長らえておられるのであろう。単なる命おしさのためであるものか」
と言った。
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いつもありがとうございます。

<参考文献:海音寺潮五郎「加藤清正」>
尼子勝久は毛利勢から検使の出頭を求めて、見事に切腹した。
27歳という若さであった。
尼子勝久追悼碑

鹿之助は士卒とともに許されて城を出たが、毛利家では
「そなたは聞こえる勇士であるから、召し抱えて5千石の知行をあてがおう」
と言って、西の方に連れて行ったという。
織田家の諸隊では、色々な批評が行われた。
「鹿之助が所行心得がたし、生涯の名節がこれで汚れた」
という者もあり
「いやいや、そう即断してはならぬ。鹿之助ほどの勇士、必ず思う子細があろう」
という者もあってうわさの花が咲いた。
鹿之助の所行についての批判は、秀吉の近習の間でも行われ、市松は
「鹿之助殿の尼子勝久殿に言われた言葉によって判断すれば、鹿之助殿は出来るならば、毛利の当
主・輝元を、さらずば吉川元春か、小早川隆景を討取って、せめてもの尼子氏累代の無念を晴らそ
うと心掛けて、惜しからぬ命を長らえておられるのであろう。単なる命おしさのためであるものか」
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