お江 (25) 『茶々、鶴松を出産』
『茶々、鶴松を出産』
茶々の産所として建てられた淀城は、今、公園となって堀や石垣が残る淀城跡とは異なる。この淀城は
江戸期に入り建てられたもので、茶々の淀城はこの城跡から500mほど北に行った妙教寺の付近一帯
に存在していた。
妙教寺境内にある淀城の碑

この茶々の淀城近くには、当時、淡水湖の巨椋(おぐら)池があり、桂川、宇治川、木津川の3点合流に
あって京都と大坂を結ぶ交通の要衝となっていた。
そこには細川氏の小さな城が昔からあったとされ、秀吉の弟・秀長と細川忠興によって拡張・大改修した。
淀城の対岸に、細川ガラシャ(忠興の妻で、明智光秀の娘)が嫁ぎ、祝言を挙げた勝竜寺城があったが、
忠興はこの城の石垣を外して船で運んで、淀城の石垣に用いている。
秀吉は淀城にたびたび足を運んで仕上がり具合を視察し、吾子の生まれる日を心待ちにした。
ちょうどこの頃、聚楽第の南門表で落首の張り紙が発見される。落首を書いて貼った者は大坂に逃げて
潜んだらしく、探索が大坂で行なわれた。
犯人はなかなか捕らえられない。そこで犯人であろうがなかろうが、不振な者が逮捕されクジを引かさ
れ当たったものが犯人にされ、ある者は京都に連行されて磔にされるなど、犯人とされた者は不運という
他はなく、家族までが処刑されたという。
何という不条理、暗黒政治である。
諫言する家臣を大事にした徳川家康は、落首は自分を知る良き反省材料として、これをかえって歓迎し、
犯人などの探索をさせなかった。
徳川家康(1543-1616年) 豊臣秀吉(1537-1598年)

秀吉は違った。
秀吉は自分を非難する者に容赦しなかった。
そんななか、茶々は淀城に移り、以降彼女は「淀殿」と呼ばれるようになり、1589年5月27日に男の子
を出産した。
生まれた子が若君と分かると、秀吉は有頂天になった。時に淀殿21歳、秀吉は53歳の時の子どもであ
った。
すでにわが子を持てるなどと思ってもみなかった秀吉は、棄丸(後の鶴松)と名づけられた若君にメロメロ
になっただけでなく、淀殿にも骨抜きにされた。
秀吉は小田原城の北条氏討伐を計画していたが、その出陣もわが子可愛さに1年延期してしまう。

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応援ありがとうございました
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石垣山城
秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に、天守台をも配置した石垣山城を突貫工事で築き、
その城に淀殿と松の丸殿を呼び寄せ、北条氏をじっくり攻めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
茶々の産所として建てられた淀城は、今、公園となって堀や石垣が残る淀城跡とは異なる。この淀城は
江戸期に入り建てられたもので、茶々の淀城はこの城跡から500mほど北に行った妙教寺の付近一帯
に存在していた。
妙教寺境内にある淀城の碑

この茶々の淀城近くには、当時、淡水湖の巨椋(おぐら)池があり、桂川、宇治川、木津川の3点合流に
あって京都と大坂を結ぶ交通の要衝となっていた。
そこには細川氏の小さな城が昔からあったとされ、秀吉の弟・秀長と細川忠興によって拡張・大改修した。
淀城の対岸に、細川ガラシャ(忠興の妻で、明智光秀の娘)が嫁ぎ、祝言を挙げた勝竜寺城があったが、
忠興はこの城の石垣を外して船で運んで、淀城の石垣に用いている。
秀吉は淀城にたびたび足を運んで仕上がり具合を視察し、吾子の生まれる日を心待ちにした。
ちょうどこの頃、聚楽第の南門表で落首の張り紙が発見される。落首を書いて貼った者は大坂に逃げて
潜んだらしく、探索が大坂で行なわれた。
犯人はなかなか捕らえられない。そこで犯人であろうがなかろうが、不振な者が逮捕されクジを引かさ
れ当たったものが犯人にされ、ある者は京都に連行されて磔にされるなど、犯人とされた者は不運という
他はなく、家族までが処刑されたという。
何という不条理、暗黒政治である。
諫言する家臣を大事にした徳川家康は、落首は自分を知る良き反省材料として、これをかえって歓迎し、
犯人などの探索をさせなかった。
徳川家康(1543-1616年) 豊臣秀吉(1537-1598年)


秀吉は違った。
秀吉は自分を非難する者に容赦しなかった。
そんななか、茶々は淀城に移り、以降彼女は「淀殿」と呼ばれるようになり、1589年5月27日に男の子
を出産した。
生まれた子が若君と分かると、秀吉は有頂天になった。時に淀殿21歳、秀吉は53歳の時の子どもであ
った。
すでにわが子を持てるなどと思ってもみなかった秀吉は、棄丸(後の鶴松)と名づけられた若君にメロメロ
になっただけでなく、淀殿にも骨抜きにされた。
秀吉は小田原城の北条氏討伐を計画していたが、その出陣もわが子可愛さに1年延期してしまう。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 石垣山城
秀吉は小田原城を見下ろす笠懸山に、天守台をも配置した石垣山城を突貫工事で築き、
その城に淀殿と松の丸殿を呼び寄せ、北条氏をじっくり攻めています。
≪本日の問題≫
<参考文献:お江(楠戸義昭薯)>
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お!
現在ちょうど、徳永真一郎さんの「石田三成-義に生きた智将の生涯」を読んでいたので、「あの部分か~!」と思いました。
こっちの本では、生まれたとき、鶴松には「捨」秀頼には「拾」と名づけて、その後改名していましたね。
この本でも、息子の溺愛度は、そりゃぁもう…。
(^^;)
こっちの本では、生まれたとき、鶴松には「捨」秀頼には「拾」と名づけて、その後改名していましたね。
この本でも、息子の溺愛度は、そりゃぁもう…。
(^^;)
クラチー さま
> 現在ちょうど、徳永真一郎さんの「石田三成-義に生きた智将の生涯」を読んでいたので、「あの部分か~!」と思いました。
> こっちの本では、生まれたとき、鶴松には「捨」秀頼には「拾」と名づけて、その後改名していましたね。
> この本でも、息子の溺愛度は、そりゃぁもう…。
> (^^;)
お!
クラチーさんは、モパッサンを枕にしているのかと思っていたら、三成くんもかじっていましたか。
結構、文字の違いはありますよね。
最悪なのは「最上義光(もがみ よしみつ)」わざわざ、振り仮名をふって喧嘩うっているのかと
思う小説もありました。
> こっちの本では、生まれたとき、鶴松には「捨」秀頼には「拾」と名づけて、その後改名していましたね。
> この本でも、息子の溺愛度は、そりゃぁもう…。
> (^^;)
お!
クラチーさんは、モパッサンを枕にしているのかと思っていたら、三成くんもかじっていましたか。
結構、文字の違いはありますよね。
最悪なのは「最上義光(もがみ よしみつ)」わざわざ、振り仮名をふって喧嘩うっているのかと
思う小説もありました。