最後の戦国武将 その17 『小田原評定』
最後の戦国武将 その17 『小田原評定』
1589年の後半、政宗が秀吉から問責され、それに対して必死に弁明している頃に、関東においてもう
ひとつの事件が持ち上がっていた。
後北条氏の家臣で、沼田城の城代であった猪俣範直が、真田領の名胡桃城を奪ってしまったのです。
秀吉は、この名胡桃城奪取事件を重視し、「私戦禁止令」に違反するものだと位置づけ、いよいよ
後北条の討伐を決意し、1589年12月18日に全文5ヵ条からなる宣戦布告状を北条氏政・氏直父子に
送っています。
名胡桃城
写真は、平成22年11月2日に撮ったものです。 名胡桃登城記は「こちら」です。

宣戦布告状を受け取った北条氏側は、1590年2月4日に小田原城に重臣が集められ大評定が開かれ
た。
「戦うべきだ」、「降伏するしかない」、「いや戦う」、「戦うなら箱根で防ぐ」、「いや籠城だ」
等々、論議が繰り返され、後年「広く衆議が一致せず、物事の決定が長引くことのたとえ、また決定しな
い相談をいう」との諺にもなった「小田原評定」が繰り広げられた。
結局、後北条氏は秀吉に屈せず、小田原城に籠城して戦うことになった。
これには、政宗と連携を保っていた北条氏側では「秀吉の大軍に包囲されたとしても、伊達政宗が後詰
として来てくれる」という期待感もあったのでしょう。

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強調文『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 巨済島
豊臣秀勝は1592年に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に朝鮮国
の巨済島において病死しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
1589年の後半、政宗が秀吉から問責され、それに対して必死に弁明している頃に、関東においてもう
ひとつの事件が持ち上がっていた。
後北条氏の家臣で、沼田城の城代であった猪俣範直が、真田領の名胡桃城を奪ってしまったのです。
秀吉は、この名胡桃城奪取事件を重視し、「私戦禁止令」に違反するものだと位置づけ、いよいよ
後北条の討伐を決意し、1589年12月18日に全文5ヵ条からなる宣戦布告状を北条氏政・氏直父子に
送っています。
名胡桃城
写真は、平成22年11月2日に撮ったものです。 名胡桃登城記は「こちら」です。

宣戦布告状を受け取った北条氏側は、1590年2月4日に小田原城に重臣が集められ大評定が開かれ
た。
「戦うべきだ」、「降伏するしかない」、「いや戦う」、「戦うなら箱根で防ぐ」、「いや籠城だ」
等々、論議が繰り返され、後年「広く衆議が一致せず、物事の決定が長引くことのたとえ、また決定しな
い相談をいう」との諺にもなった「小田原評定」が繰り広げられた。
結局、後北条氏は秀吉に屈せず、小田原城に籠城して戦うことになった。
これには、政宗と連携を保っていた北条氏側では「秀吉の大軍に包囲されたとしても、伊達政宗が後詰
として来てくれる」という期待感もあったのでしょう。

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豊臣秀勝は1592年に秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、在陣中の同年9月に朝鮮国
の巨済島において病死しています。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
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