最後の戦国武将 その20 「政宗、小田原への遅参」
最後の戦国武将・伊達政宗 その20 『小田原への遅参』
家中騒動により、政宗の小田原参陣は5月10日の予定が大幅に遅れてしまった。
実際に黒川城を出発したのは5月19日であった。しかし、南会津の大内に着いたところで、黒川城に戻っ
ている。
これまたその理由は明確でない。
小田原参陣が決まって、黒川城を出発したが、あくまで参陣に反対し、徹底抗戦を主張していた伊達成実
に不穏な動きを察知し、不穏グループをもう一度説得したのでは、とも考えられます。
小田原参陣の断を下した政宗自身ですら4月中旬くらいまで迷っていたのだから、家中において参陣派・
敵対派が睨み合っていたことは容易に推測できます。
家中の意見をまとめ、再び黒川城を出発したのは、6月12日であった。初めの予定から既に1ヵ月余り遅
れていた。
黒川城を出た政宗は、片倉景綱ら百騎ほどを従え、越後の上杉領を通って小田原に向った。後北条氏領
を避けて遠回りをしたこともあり、小田原に到着したのは、7月7日であった。
小田原城(画像は小田原市役所HPよりお借りしています)

小田原開城=後北条氏滅亡が8月5日であるので、まさに「ぎりぎりセーフ」であった。
この時の政宗の恰好は、髷を切り、白麻の陣羽織を着ていたと伝えられるように、死を覚悟している風で
あったという。
その日、秀吉は政宗の謁見を許さず、2日後、秀吉は、前田利家・浅野長政ら5人の詰門を政宗もとに遣
わし、
「上洛御礼言上が遅れたのはなぜか」
「秀吉麾下(きか)の蘆名氏の討伐したのはどうしてか」
「なぜ親類である諸家と戦うのか」
といったことを詰問している。
詰問使から報告を聞いた秀吉は、会津攻めより前のことは不問とし、会津攻めの罪を責める態度を決め、
その結果、会津・岩瀬・安積の3郡を没収することとなった。
政宗が殺されるかも知れないという綱渡りのような遅参にもかかわらず、本領に加え二本松・塩松を安堵
されたことの背景には、秀吉が政宗の器量を見抜いていたからという。
政宗にしてみれば、詰問使が前田利家や浅野長政であったことが幸いした。これがもし、石田三成だった
ら政宗の命はどうなっていたかわからない。
三成はこの時期、落とせない忍城を水攻めしていたのでしょう。
前田利家や浅野長政らとは、前々から手紙のやりとりがあり、しかも政宗は抜かりなく彼らに贈り物攻勢
をかけていたのです。
度々の贈り物によって政宗に対する心証をよくしていた詰問使が、秀吉の前で政宗のことを悪くいう筈は
なかったということでしょう。

ランキングに参加しています

にほんブログ村
いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長谷堂城
関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が
最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣し、長谷堂城
で戦っています。
一説には山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得ようとして
いたともいう。しかしいずれにしても、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力における
優位に変わりはなかった。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
家中騒動により、政宗の小田原参陣は5月10日の予定が大幅に遅れてしまった。
実際に黒川城を出発したのは5月19日であった。しかし、南会津の大内に着いたところで、黒川城に戻っ
ている。
これまたその理由は明確でない。
小田原参陣が決まって、黒川城を出発したが、あくまで参陣に反対し、徹底抗戦を主張していた伊達成実
に不穏な動きを察知し、不穏グループをもう一度説得したのでは、とも考えられます。
小田原参陣の断を下した政宗自身ですら4月中旬くらいまで迷っていたのだから、家中において参陣派・
敵対派が睨み合っていたことは容易に推測できます。
家中の意見をまとめ、再び黒川城を出発したのは、6月12日であった。初めの予定から既に1ヵ月余り遅
れていた。
黒川城を出た政宗は、片倉景綱ら百騎ほどを従え、越後の上杉領を通って小田原に向った。後北条氏領
を避けて遠回りをしたこともあり、小田原に到着したのは、7月7日であった。
小田原城(画像は小田原市役所HPよりお借りしています)

小田原開城=後北条氏滅亡が8月5日であるので、まさに「ぎりぎりセーフ」であった。
この時の政宗の恰好は、髷を切り、白麻の陣羽織を着ていたと伝えられるように、死を覚悟している風で
あったという。
その日、秀吉は政宗の謁見を許さず、2日後、秀吉は、前田利家・浅野長政ら5人の詰門を政宗もとに遣
わし、
「上洛御礼言上が遅れたのはなぜか」
「秀吉麾下(きか)の蘆名氏の討伐したのはどうしてか」
「なぜ親類である諸家と戦うのか」
といったことを詰問している。
詰問使から報告を聞いた秀吉は、会津攻めより前のことは不問とし、会津攻めの罪を責める態度を決め、
その結果、会津・岩瀬・安積の3郡を没収することとなった。
政宗が殺されるかも知れないという綱渡りのような遅参にもかかわらず、本領に加え二本松・塩松を安堵
されたことの背景には、秀吉が政宗の器量を見抜いていたからという。
政宗にしてみれば、詰問使が前田利家や浅野長政であったことが幸いした。これがもし、石田三成だった
ら政宗の命はどうなっていたかわからない。
三成はこの時期、落とせない忍城を水攻めしていたのでしょう。
前田利家や浅野長政らとは、前々から手紙のやりとりがあり、しかも政宗は抜かりなく彼らに贈り物攻勢
をかけていたのです。
度々の贈り物によって政宗に対する心証をよくしていた詰問使が、秀吉の前で政宗のことを悪くいう筈は
なかったということでしょう。

ランキングに参加しています

にほんブログ村
いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 長谷堂城
関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属した政宗は、上杉氏の将直江兼続率いる軍が
最上氏居城山形城を攻撃した際、留守政景を名代として最上に援軍を派遣し、長谷堂城
で戦っています。
一説には山形城が落城するまで傍観し、疲弊した上杉勢を討ち、漁夫の利を得ようとして
いたともいう。しかしいずれにしても、伊達の援軍をあわせても、上杉軍の兵力における
優位に変わりはなかった。
≪本日の問題≫
<参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
- 関連記事
-
- 最後の戦国武将 その22 「秀吉の奥州仕置」 (2011/08/01)
- 最後の戦国武将 その21 「政宗、秀吉に謁見」 (2011/07/29)
- 最後の戦国武将 その20 「政宗、小田原への遅参」 (2011/07/28)
- 最後の戦国武将 その19 「伊達家の家中騒動」 (2011/07/27)
- 最後の戦国武将 その18 「母の毒殺計画」 (2011/07/26)
スポンサーサイト
コメントの投稿
No title
私もストレスを発散したい時は見習って
ティッシュを引っ張り出してみようかな(笑)
あずきも紙が好きで箱を見れば
よくほりほりして引っ張り出していました。
ティッシュを引っ張り出してみようかな(笑)
あずきも紙が好きで箱を見れば
よくほりほりして引っ張り出していました。
あず さま
ヤギさんでもないのに、本当に紙が大好きなんですよね。
確実にストレス発散ができ、至福のひと時のようです!!
確実にストレス発散ができ、至福のひと時のようです!!