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最後の戦国武将 その47 「政宗謀叛の噂」

最後の戦国武将・伊達政宗 その47 『政宗謀叛の噂』

1616年2月27日、家康は駿府城から田中(静岡県藤枝市)に出かけ鷹狩りを楽しみ、その夜は田中城

に泊まった。

この田中城に京都からご機嫌伺いに来ていて、茶屋四郎次郎に榧(かや)の油であげた鯛の天ぷらを

勧められ、つい食べ過ぎて夜中に腹痛を訴えたという。

「家康、発病!」

が、またたく間に諸国に広まり、急報を受けた秀忠は、3月8日に江戸を出発し、翌9日には駿府に駆け

つけ家康を見舞っている。

「政宗謀叛」

の噂が飛び交ったのもこの頃であった。

その内容は、大坂の陣の論功行賞に不満を持った松平忠輝が家康と対立し、まさに一触即発の状態で、

しかも、忠輝の背後には政宗がついていたというものである。

「家康、発病!」と「政宗、謀叛!」

の風説があたかも表裏をなすかのように津々浦々を電波のように駆け抜けたという。

では、政宗の謀叛の噂は、どの程度の信憑性があったものだったのか。

駿府城と家康像
su.駿府城 001 su.駿府城 004

だいぶ後のことになりますが、1628年4月、政宗が前将軍・秀忠を江戸屋敷に招待したとこのことです。

政宗自ら善を持って秀忠のところに持っていったとき、若年寄の侍が「毒味を」と言った。

それに対する政宗の答えが、

「将軍家を殺そうと思ったのは、もう10年も昔のことだ。その時だって、毒などで殺そうとは思わなかった。

馬を乗り寄せて戦いで殺そうと思ったのだ」

といったという。

このやり取りを聞くだけでも、天下に挑戦し続けた男の執念を感じます。

しかし、結局、政宗は謀叛を起さなかった。

政宗は、駿府城を訪れ、病床の家康を見舞い、家康も政宗に後のことを頼んだという。

この構図は、1598年の秀吉の死の直前と似ていますが、秀吉の場合は秀頼がまだ幼く、家康の時は

既に秀忠が立派な2代将軍になっていたのです。

政宗も、自分が秀吉臨終の時の家康の立場になれないことは十分理解していたのでしょう。


涼しくなりましたので、外出もできるようになりました!
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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 朝倉家と信長が不仲であったから
        最大の問題は、父・久政の盟友である朝倉義景と信長の不仲だったからといいます。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:伊達政宗知られざる実像(小和田哲男薯)>
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