お江 [総集編] その11 「残された姉妹の最後」
『お江の子どもたちが歩んだ苦悩の道のり』
淀殿の死後、2人の妹は、徳川家の天下のもとで生きつづけた。
お江は、長男の家光を自分の手で育てられず、しかも病弱で口数も少なかったため、自分の手で育てた
次男の忠長を溺愛。忠長が将軍の座に就くことを願ったという。
夫の秀忠もまた、妻の影響を受け、忠長を後継者にしようとしていたが、家康の鶴の一声により、次期
将軍は長男の家光と決した。
家光は、廃嫡の危機を免れたものの、両親への不信感と弟への猜疑心は消えることはなかった。
お江が産んだ女子は、長女千姫が豊臣家に嫁いだのをはじめ、次女は前田家、3女は越前松平家、4女
は京極家にと嫁いでおり、いわば政略結婚の道具として利用される運命にあった。
家康は、摂関家や平清盛のように、天皇家へ徳川家の血を引く娘を送り込むチャンスを狙い続けており、
その大役を果たすことになったのが5女の和子だった。
慶長15年には、和子と後水尾天皇との婚約が成立し、1616年6月、14歳になった和子は入内して後水
尾天皇の后(きさき)となった。
和子は、後水尾天皇との間に2男5女をもうけるも、皇子は早世しており、無事に育ったのは2人の内親
王だけだった。
1629年、興子内親王が7歳で明正天皇として即位。秀忠は自分の孫を帝位につけることができた。
しかし、即位後の女帝は配偶者をもてないという不文律により、徳川家の血筋を天皇家に伝える悲願は
叶えられなかった。
お江のお墓
*お江の墓所訪問記は、「こちら」と「こちら」です。

お江が波瀾の生涯を閉じたのは1626年9月15日であった。
お江は、異状に嫉妬心が深く、夫・秀忠が側室を持つことを許さず、妊娠した側室に堕胎させたともいう。
家康が数多くの側室を従え、子宝に恵まれたことは、徳川家の天下の安定に大きく貢献している。そう考
えれば、秀忠も多く側室を持つべきであっただろうが、彼女は許さなかったとされる。
しかし、秀忠が側室を持たなかったことは、すべての原因が彼女の嫉妬深さに起因するとも思われない。
徳川家の天下を確実にするためには、後継者の優先順位は厳然として守られるべきであり、そのために
は、将軍が無造作に側室を設けることは避けるべきであった。そういう事情のあり、秀忠は公的には側室
を持たなかったと思われます。
また、秀忠は、妻を恐れたというよりも、自分に嫁ぐまで、さまざまな辛い経験をした妻を思いやる心が強か
ったのではないでしょうか。
1633年8月27日、次女お初が江戸で病没。享年64歳。
3姉妹のなかでは、比較的平穏な人生を送り、そして最も長寿を保った。
お初の死により、浅井3姉妹の歴史は終幕を迎えます。

ランキングに参加しています

にほんブログ村
いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 福島正則
福島正則は、母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に
仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る
という大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられてい
ます。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
淀殿の死後、2人の妹は、徳川家の天下のもとで生きつづけた。
お江は、長男の家光を自分の手で育てられず、しかも病弱で口数も少なかったため、自分の手で育てた
次男の忠長を溺愛。忠長が将軍の座に就くことを願ったという。
夫の秀忠もまた、妻の影響を受け、忠長を後継者にしようとしていたが、家康の鶴の一声により、次期
将軍は長男の家光と決した。
家光は、廃嫡の危機を免れたものの、両親への不信感と弟への猜疑心は消えることはなかった。
お江が産んだ女子は、長女千姫が豊臣家に嫁いだのをはじめ、次女は前田家、3女は越前松平家、4女
は京極家にと嫁いでおり、いわば政略結婚の道具として利用される運命にあった。
家康は、摂関家や平清盛のように、天皇家へ徳川家の血を引く娘を送り込むチャンスを狙い続けており、
その大役を果たすことになったのが5女の和子だった。
慶長15年には、和子と後水尾天皇との婚約が成立し、1616年6月、14歳になった和子は入内して後水
尾天皇の后(きさき)となった。
和子は、後水尾天皇との間に2男5女をもうけるも、皇子は早世しており、無事に育ったのは2人の内親
王だけだった。
1629年、興子内親王が7歳で明正天皇として即位。秀忠は自分の孫を帝位につけることができた。
しかし、即位後の女帝は配偶者をもてないという不文律により、徳川家の血筋を天皇家に伝える悲願は
叶えられなかった。
お江のお墓
*お江の墓所訪問記は、「こちら」と「こちら」です。

お江が波瀾の生涯を閉じたのは1626年9月15日であった。
お江は、異状に嫉妬心が深く、夫・秀忠が側室を持つことを許さず、妊娠した側室に堕胎させたともいう。
家康が数多くの側室を従え、子宝に恵まれたことは、徳川家の天下の安定に大きく貢献している。そう考
えれば、秀忠も多く側室を持つべきであっただろうが、彼女は許さなかったとされる。
しかし、秀忠が側室を持たなかったことは、すべての原因が彼女の嫉妬深さに起因するとも思われない。
徳川家の天下を確実にするためには、後継者の優先順位は厳然として守られるべきであり、そのために
は、将軍が無造作に側室を設けることは避けるべきであった。そういう事情のあり、秀忠は公的には側室
を持たなかったと思われます。
また、秀忠は、妻を恐れたというよりも、自分に嫁ぐまで、さまざまな辛い経験をした妻を思いやる心が強か
ったのではないでしょうか。
1633年8月27日、次女お初が江戸で病没。享年64歳。
3姉妹のなかでは、比較的平穏な人生を送り、そして最も長寿を保った。
お初の死により、浅井3姉妹の歴史は終幕を迎えます。

ランキングに参加しています

にほんブログ村
いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 福島正則
福島正則は、母が豊臣秀吉の叔母だったため、その縁から幼少より小姓として秀吉に
仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いのときは一番槍・一番首として敵将・拝郷家嘉を討ち取る
という大功を立てて賞され、賤ヶ岳の七本槍の中でも突出して5,000石を与えられてい
ます。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
- 関連記事
-
- お江 [総集編] その13 「お江に関係が深かった人々(2)」 (2011/11/27)
- お江 [総集編] その12 「お江に関係が深かった人々(1)」 (2011/11/20)
- お江 [総集編] その11 「残された姉妹の最後」 (2011/11/13)
- お江 [総集編] その10 「大坂城落城」 (2011/11/06)
- お江 [総集編] その9 「千姫輿入れ」 (2011/10/30)
スポンサーサイト
コメントの投稿
No title
大河ドラマ『江』ももうすぐ終わりですね。
先週今週はさすがに涙、涙でした。
家光は男色だったとか。
戦の世では、男ばかりの生活が長くなることもあったでしょうから
今ほどオープンではないとしても、不思議なことでもなかったのでしょうね。
うめ様はそのワラを編んだようなおもちゃ、お気に入りですね。
先週今週はさすがに涙、涙でした。
家光は男色だったとか。
戦の世では、男ばかりの生活が長くなることもあったでしょうから
今ほどオープンではないとしても、不思議なことでもなかったのでしょうね。
うめ様はそのワラを編んだようなおもちゃ、お気に入りですね。
エリー♪さま
大河ドラマ、見ておられますか。♪
歴史というより、女性史ですから歴史を求める人たちには不満も
多いようですけどネ。
> 家光は男色だったとか。
良くご存知ですね。^^
秀吉さん以外の戦国武将は、男色といってもいい位いだったようですね。(´ω`)
さすが、時代が違うことなのでしょうね。
はい、piglet一家のうさぎたちは、全員がオモチャが大好きです。☆
歴史というより、女性史ですから歴史を求める人たちには不満も
多いようですけどネ。
> 家光は男色だったとか。
良くご存知ですね。^^
秀吉さん以外の戦国武将は、男色といってもいい位いだったようですね。(´ω`)
さすが、時代が違うことなのでしょうね。
はい、piglet一家のうさぎたちは、全員がオモチャが大好きです。☆
こんばんわ
お江の娘といえばお初が引き取り京極家に養女に出された初姫が不遇の人生で気の毒でした。
夫や姑とうまくいかず京極家で針の筵にいるような日々を送っていたと何かで読んだことがあります。
29歳の若さで亡くなりその臨終の際、夫は相撲見物をしていたそうですし。
お初は死ぬ間際この初姫の事が心残りで仕方なかったかもしれませんね。
夫や姑とうまくいかず京極家で針の筵にいるような日々を送っていたと何かで読んだことがあります。
29歳の若さで亡くなりその臨終の際、夫は相撲見物をしていたそうですし。
お初は死ぬ間際この初姫の事が心残りで仕方なかったかもしれませんね。
nosi さま
良くご存知ですね。
大河ドラマにおいても、初姫を貰い受ける場面はあったようですが、
その後は、触れられることはなかったですよね。
初姫の葬儀においては、京極氏は葬儀への立ち会いすら秀忠や弟の家光に
許可されなかったといいますから、不遇の人生だったのですね。
大河ドラマにおいても、初姫を貰い受ける場面はあったようですが、
その後は、触れられることはなかったですよね。
初姫の葬儀においては、京極氏は葬儀への立ち会いすら秀忠や弟の家光に
許可されなかったといいますから、不遇の人生だったのですね。