お江 [総集編] その13 「お江に関係が深かった人々(2)」
お江 [総集編] その13「お江に関係が深かった人々(2)」
京極マリア(?-1618年)
浅井久政の娘として生まれる。
そのため、長政の姉にあたるが、一説には久政の妹ともいう。
京極忠吉のもとに嫁ぎ、夫との間に高次、高知、龍子をもうける。
1581年、夫とともに安土で洗礼を受け、マリアと名乗った。豊臣秀吉によるキリシタン禁止後も信仰を守る。
龍子は、母の影響を受けることなく洗礼を受けず、豊臣秀吉の側室に迎えられて松丸殿と称された。
お茶々をはじめとする3姉妹にとり、マリアは伯母にあたりその娘の松丸殿は従姉妹にあたる。
そのため北ノ庄城陥落後、3姉妹は一時マリアに預けられたともいう。
羽柴秀勝(1569-1592年)
三次吉房の次男。母は秀吉の姉にあたる瑞龍院。
幼名は小吉。叔父秀吉の数少ない親族の一人として重用される。
秀吉は、信長の4男にあたる於次を養子とし、秀勝と名乗られていたが、1585年18歳で病没。
その後、丹波亀山城主の座とともに、秀勝の名を甥の小吉に与えた。
禄高への不満を訴えたことから、秀吉によって所領を一旦は没収されたが、兄・秀次の取り成しにより、甲斐
府中城主を経て岐阜城主の座を与えられた。
お江を妻に迎え、秀吉によるアジア制覇が完成すれば、朝鮮の統治を一任される予定だったという。
しかし、朝鮮出兵のさなか、巨済島で陣没した。
お江(1573-1626年)

豊臣定子(1592-1658年)
羽柴秀勝とお江の長女として生まれる。
父は誕生前に病没。母は徳川秀忠に再婚したため、伯母の淀殿に養女として育てられる。
1604年、淀殿の斡旋で九条幸家のもとに嫁ぐ。
1608年には夫・幸家が関白に就任。以後、北政所と敬称される。(北政所は秀吉の妻だけの名称ではありま
せん)
豊臣家滅亡後は、秀忠の養女として扱われ、夫の幸家は幕府との折衝役として朝廷内での影響力を誇示。
2人の間に生まれた道房は、公卿の最高位である摂政に就任し、父と同じように朝幕関係の円滑化に尽力。
定子は、異父兄弟の和子が後水尾天皇に嫁ぐと、朝廷内で数少ない近親者として尽くした。
千姫(1597-1666年)
徳川秀忠とお江との間に生まれた長女。
豊臣秀吉の遺命により、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。
大坂の陣後、豊臣家が滅亡したのち、父・秀忠の意向により、徳川四天王の一人として知られる本多忠勝の
嫡孫にあたる忠刻に再嫁した。
一説によると、家康は千姫を助けた者の嫁にすると約束。
坂崎直盛は助け出しながらも、約束は履行されず、千姫奪取計画を実行に移そうとしたところ家臣に殺害され
たともいう。
1626年、夫の忠刻の死後、加賀前田家との3度目の婚姻も検討されたが、双方ともに気乗り薄のため、破談
となった。
その後、70歳で天寿を全うするまで、3代将軍の姉として影響力を保持した。
徳川和子(1607-1678年)
徳川秀忠とお江の間に生まれた5女。“まさこ”とも読む。
誕生の翌年には天皇家との婚儀が噂された。結果としては大坂の陣の勃発、後陽成上皇の崩御、後水尾天
皇の女性問題によって先送りにされ、14歳で後水尾天皇に嫁いだ。
婚儀にあたっては、徳川家康の側室だった阿茶局が母親代わりとして同行し、御所での世話にあたった。
この婚儀は、徳川家の権威を高めるための政略結婚であり、御所内における風当たりは強かった。だが、和
子は母譲りの根気強さを発揮し、朝廷や幕府の関係が円滑になるように心を配り続けた。
娘の明正天皇の即位後、東福門院と名乗った。
手芸を得意とし、小袖のデザインには定評があったという。
後水尾天皇(1596-1680年)
後陽成天皇の第3皇子。母は関白・近衛前久の娘。
16歳で即位。25歳で徳川家から和子を女御として迎える。
幕府による締め付けへの反発から、和子との間に生まれた皇女(明正天皇)に譲位する。
幕府による圧迫に対して深く憤慨はしていたが、武家政権によって隠岐に配流された後鳥羽上皇や後醍醐天
皇を教訓とし、基本的には協調路線を維持した。
退位してからは、和歌・茶道・書道などの文芸活動に専念した。
また、多くの寺社の建立や復興に関与している。
対する幕府は、上皇の遊行費を負担することにより、不満が高まらないよう配意した。
ほぼ一年に渡り、「お江」におつき合いを戴きましてありがとうございました。
このブログを通じて、浅井3姉妹について勉強することができました。
どうしても、豊臣方の記事が多くなっていますが、来年は徳川方についても取り上げてみたいと思いますの
で、お付き合いください。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 高坂昌信
武田四天王とは、武田信玄・勝頼期の重臣のうち、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂
昌信を指す総称です。
いずれも譜代家老層の出身で、信玄に登用され壮年・晩年期に活躍した主要家臣です。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
京極マリア(?-1618年)
浅井久政の娘として生まれる。
そのため、長政の姉にあたるが、一説には久政の妹ともいう。
京極忠吉のもとに嫁ぎ、夫との間に高次、高知、龍子をもうける。
1581年、夫とともに安土で洗礼を受け、マリアと名乗った。豊臣秀吉によるキリシタン禁止後も信仰を守る。
龍子は、母の影響を受けることなく洗礼を受けず、豊臣秀吉の側室に迎えられて松丸殿と称された。
お茶々をはじめとする3姉妹にとり、マリアは伯母にあたりその娘の松丸殿は従姉妹にあたる。
そのため北ノ庄城陥落後、3姉妹は一時マリアに預けられたともいう。
羽柴秀勝(1569-1592年)
三次吉房の次男。母は秀吉の姉にあたる瑞龍院。
幼名は小吉。叔父秀吉の数少ない親族の一人として重用される。
秀吉は、信長の4男にあたる於次を養子とし、秀勝と名乗られていたが、1585年18歳で病没。
その後、丹波亀山城主の座とともに、秀勝の名を甥の小吉に与えた。
禄高への不満を訴えたことから、秀吉によって所領を一旦は没収されたが、兄・秀次の取り成しにより、甲斐
府中城主を経て岐阜城主の座を与えられた。
お江を妻に迎え、秀吉によるアジア制覇が完成すれば、朝鮮の統治を一任される予定だったという。
しかし、朝鮮出兵のさなか、巨済島で陣没した。
お江(1573-1626年)

豊臣定子(1592-1658年)
羽柴秀勝とお江の長女として生まれる。
父は誕生前に病没。母は徳川秀忠に再婚したため、伯母の淀殿に養女として育てられる。
1604年、淀殿の斡旋で九条幸家のもとに嫁ぐ。
1608年には夫・幸家が関白に就任。以後、北政所と敬称される。(北政所は秀吉の妻だけの名称ではありま
せん)
豊臣家滅亡後は、秀忠の養女として扱われ、夫の幸家は幕府との折衝役として朝廷内での影響力を誇示。
2人の間に生まれた道房は、公卿の最高位である摂政に就任し、父と同じように朝幕関係の円滑化に尽力。
定子は、異父兄弟の和子が後水尾天皇に嫁ぐと、朝廷内で数少ない近親者として尽くした。
千姫(1597-1666年)
徳川秀忠とお江との間に生まれた長女。
豊臣秀吉の遺命により、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。
大坂の陣後、豊臣家が滅亡したのち、父・秀忠の意向により、徳川四天王の一人として知られる本多忠勝の
嫡孫にあたる忠刻に再嫁した。
一説によると、家康は千姫を助けた者の嫁にすると約束。
坂崎直盛は助け出しながらも、約束は履行されず、千姫奪取計画を実行に移そうとしたところ家臣に殺害され
たともいう。
1626年、夫の忠刻の死後、加賀前田家との3度目の婚姻も検討されたが、双方ともに気乗り薄のため、破談
となった。
その後、70歳で天寿を全うするまで、3代将軍の姉として影響力を保持した。
徳川和子(1607-1678年)
徳川秀忠とお江の間に生まれた5女。“まさこ”とも読む。
誕生の翌年には天皇家との婚儀が噂された。結果としては大坂の陣の勃発、後陽成上皇の崩御、後水尾天
皇の女性問題によって先送りにされ、14歳で後水尾天皇に嫁いだ。
婚儀にあたっては、徳川家康の側室だった阿茶局が母親代わりとして同行し、御所での世話にあたった。
この婚儀は、徳川家の権威を高めるための政略結婚であり、御所内における風当たりは強かった。だが、和
子は母譲りの根気強さを発揮し、朝廷や幕府の関係が円滑になるように心を配り続けた。
娘の明正天皇の即位後、東福門院と名乗った。
手芸を得意とし、小袖のデザインには定評があったという。
後水尾天皇(1596-1680年)
後陽成天皇の第3皇子。母は関白・近衛前久の娘。
16歳で即位。25歳で徳川家から和子を女御として迎える。
幕府による締め付けへの反発から、和子との間に生まれた皇女(明正天皇)に譲位する。
幕府による圧迫に対して深く憤慨はしていたが、武家政権によって隠岐に配流された後鳥羽上皇や後醍醐天
皇を教訓とし、基本的には協調路線を維持した。
退位してからは、和歌・茶道・書道などの文芸活動に専念した。
また、多くの寺社の建立や復興に関与している。
対する幕府は、上皇の遊行費を負担することにより、不満が高まらないよう配意した。
ほぼ一年に渡り、「お江」におつき合いを戴きましてありがとうございました。
このブログを通じて、浅井3姉妹について勉強することができました。
どうしても、豊臣方の記事が多くなっていますが、来年は徳川方についても取り上げてみたいと思いますの
で、お付き合いください。

ランキングに参加しています

にほんブログ村
いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 高坂昌信
武田四天王とは、武田信玄・勝頼期の重臣のうち、馬場信房、内藤昌豊、山県昌景、高坂
昌信を指す総称です。
いずれも譜代家老層の出身で、信玄に登用され壮年・晩年期に活躍した主要家臣です。
≪本日の問題≫
<参考文献:徳川幕府・創業三代の百年戦争(外川淳著)>
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No title
この時代の平均寿命を考えると、ここに書かれた人達は
みなさん長生きされていますね。
まぁ食べるのに困る身分の人たちではないですからね。
「江」も今日で終わりましたね。最後はなんかまとめみたいであんまり
内容なかったですが、来週から寂しくなります。
太平の世は喜ばしいことですが、ドラマとしてはあんまり盛り上がりませんね。
信長も秀吉も家康も、太平の時代に生まれていたら後世に名を残す
ことができなかったかもしれませんね。
さくらちゃん、そんなつぶらな瞳で見られたら、何度でもおやつあげちゃいますね。
みなさん長生きされていますね。
まぁ食べるのに困る身分の人たちではないですからね。
「江」も今日で終わりましたね。最後はなんかまとめみたいであんまり
内容なかったですが、来週から寂しくなります。
太平の世は喜ばしいことですが、ドラマとしてはあんまり盛り上がりませんね。
信長も秀吉も家康も、太平の時代に生まれていたら後世に名を残す
ことができなかったかもしれませんね。
さくらちゃん、そんなつぶらな瞳で見られたら、何度でもおやつあげちゃいますね。
エリー♪さま
確かに長生きですよね。
> まぁ食べるのに困る身分の人たちではないですからね。
↑
この通りかも知れませんね。
戦で早世しなければ、結構、長生きしていたのかも知れませんね。
「江」の最終会は、HappyEndにするために、結構無理なストーリだった
ですね。
来週から、「坂の上の雲」が4週に渡り放映されるそうですが、こちらの
方が面白いかも知れませんね。
> 信長も秀吉も家康も、太平の時代に生まれていたら後世に名を残す
> ことができなかったかもしれませんね。
そうですよね。
3人とも、強烈な個性と時代にあった乗りがあったから、名を残せたの
でしょうね。
謙信や信玄は、時代の流れに乗れなかった地方の名将に過ぎなかった
のと対象的ですね。
> さくらちゃん、そんなつぶらな瞳で見られたら、何度でもおやつあげちゃいますね。
ハイ、ハイ、その通りで、体重が増えすぎて困っています。
最近、立ち振る舞いが上手で、つい、さくらのペースになっています。(´ω`)
> まぁ食べるのに困る身分の人たちではないですからね。
↑
この通りかも知れませんね。
戦で早世しなければ、結構、長生きしていたのかも知れませんね。
「江」の最終会は、HappyEndにするために、結構無理なストーリだった
ですね。
来週から、「坂の上の雲」が4週に渡り放映されるそうですが、こちらの
方が面白いかも知れませんね。
> 信長も秀吉も家康も、太平の時代に生まれていたら後世に名を残す
> ことができなかったかもしれませんね。
そうですよね。
3人とも、強烈な個性と時代にあった乗りがあったから、名を残せたの
でしょうね。
謙信や信玄は、時代の流れに乗れなかった地方の名将に過ぎなかった
のと対象的ですね。
> さくらちゃん、そんなつぶらな瞳で見られたら、何度でもおやつあげちゃいますね。
ハイ、ハイ、その通りで、体重が増えすぎて困っています。
最近、立ち振る舞いが上手で、つい、さくらのペースになっています。(´ω`)
はじめまして
戦国時代の人間関係って本当に複雑ですよね。。。
親が子を子が親を滅ぼすだけでなく
周りの敵は血縁関係の武将だらけって事がザラですものね。
戦国時代には憧れますが、本当に大変な時代ですよネ。
親が子を子が親を滅ぼすだけでなく
周りの敵は血縁関係の武将だらけって事がザラですものね。
戦国時代には憧れますが、本当に大変な時代ですよネ。
タケチヨ さま
コメントありがとうございます!
古い記事まで、ご覧いただきまして嬉しいです。♪
本当に戦国時代の人間関係と生きることの難しさを感じますね。
> 戦国時代には憧れますが、本当に大変な時代ですよネ。
まったく同様な感じで捕らえていますので、興味が尽きませんが
大変な時代であったろうと、さらに興味が沸いてきます。^^
古い記事まで、ご覧いただきまして嬉しいです。♪
本当に戦国時代の人間関係と生きることの難しさを感じますね。
> 戦国時代には憧れますが、本当に大変な時代ですよネ。
まったく同様な感じで捕らえていますので、興味が尽きませんが
大変な時代であったろうと、さらに興味が沸いてきます。^^