近代戦に敗れた悲劇の武将 「武田勝頼」 その7

『上杉謙信の死』

設楽ヶ原(長篠)の戦いを境に、追う者と負われる者の立場は一変した。

織田・徳川の連合軍は、設楽ヶ原(長篠)大勝利の余勢を駆って、二俣城、高天神城などを次々に奪い返

し、勝頼は防戦一方に追い込まれた。

設楽ヶ原(長篠)の戦いから1年の後、1576年4月16日に勝頼の父・武田信玄の葬儀が、甲斐の乾徳山

恵林寺で盛大に執り行われた。

「3年間喪を秘せ」というその遺言どおり、ちょうど3年目のことであった。

しかし、葬儀の参列者の中に信玄子飼いの重臣たちは少なかった。

彼らの多くは、長篠城外、設楽ヶ原の土と化していたのです。


恵林寺
1576年4月には、快川紹喜を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われています。
1582年4月3日、天目山の戦いで武田氏が滅亡した後に恵林寺に逃げ込んだ六角義弼の引渡しを寺側が
拒否したため、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって焼き討ちにあって
います。
この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と
唱え、寺と運命を共にしています。

四脚門(重要文化財)     三門
恵林寺 001 恵林寺 002
恵林寺 003 恵林寺 004 恵林寺 005

1578年、越後の上杉謙信が没した。

謙信は武田信玄亡き後、信長が最も恐れていた武将である。

この上杉謙信の死というものは、武田勝頼の人生にとって、武田滅亡を早める大きなきっかけになったと

思われます。

謙信と信玄は、川中島であれほど戦っていたが、両方ともお互いに相手を理解し合い、尊敬し合っていた。

そういう気配があります。

信玄が3万の軍を発して、西上の戦いに出たとき謙信は黙って見ていた。

というのは、信長の存在に対して、謙信はそろそろ我慢できなくなっている時期でもあったからでしょう。

上杉謙信は1578年になって、信長を打つべしということで兵を発することにした。(関東説もあり)しかし、

その前日に、厠(かわや)の中で倒れて、再び立ち上がることはなかった。

この謙信が存命していたら、信長は大軍を発して北陸道を攻め上がる必要があるため、勝頼は一挙に京

都に攻め上がるチャンスもあったが、謙信が亡くなったことは勝頼にとって非常に不幸なことであった。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 恵林寺
        設楽ヶ原の戦いから1年の後、信玄の遺言どおり1576年4月16日に勝頼の父・武田信玄の
        葬儀が、甲斐の乾徳山恵林寺で盛大に執り行われています。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>
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