近代戦に敗れた悲劇の武将 「武田勝頼」 その8

『御親類の裏切り』

1581年、勝頼は甲府の西北20Km、釜無川の断崖に臨む七里ヶ岩の上に、新府城を築いた。

“人は城、人は石垣、人は堀”をモットーとした信玄は、国内にひとつも城を築かなかったという。

しかし、勝頼には、敵を迎え撃つための要塞としての城が必要であった。

勝頼は、城の完成を待たず、その年の暮れ、祖父・信虎以来3代に渡った躑躅ヶ崎の館を捨てて、新府城

に移った。

翌1582年2月、総勢18万を超える織田・徳川の連合軍が、甲州目指して進撃を開始した。

やがて新府城の勝頼のもとには、続々と悲報が舞い込んできた。信濃方面の支城があいついで陥落し、

妹婿・木曾義昌までが裏切って信長に通じたというのである。

新府城
si.新府城 001 si.新府城 002

勝頼は、木曾義昌に命じて木曾の檜(ひのき)を新府城まで運ばせたといいます。

大木を木曾から引っ張り上げ、塩尻峠を越え、さらに諏訪へ落として、諏訪から韮崎まで引っ張ったという。

これが大変苦しい徴用だったといいます。

この仕事に駆り出された木曾の人にとっても、また伊那の人、諏訪の人たちにも、これは非常に辛かった。

こういうこともあって木曾の恨みを受け、裏切りのひとつになったともいいます。

そして、木曾が裏切ったら次は、一番頼りになる穴山信君(梅雪)が裏切った。

この穴山信君は、当時は駿河探題であったが、彼は御親類衆の筆頭である。

この筆頭が裏切って家康についたから、これでもう御親類衆は全部戦う気力を失うことになる。

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 全部正解
        豊臣秀吉は「唐冠」、前田利家と蒲生氏郷は「鯰の尾」、加藤清正は「長烏帽子」、黒田
        長政は「大水牛」、加藤嘉明は「富士山」の形をした兜をかぶっていました。
        その理由はさまざまで、戦勝を祈願してや日本一の富士山にわが身をなぞえるため、また
        誰よりも目立ち名を成したいという気持ちなどをユニークな兜に表現したそうです。

≪本日の問題≫


                                 <参考文献:武将列伝江戸編(海音寺潮五郎著)>
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