脅威の武力は戦場にあってこそ輝く

『徳川四天王・徳川三傑 本多忠勝』

徳川家康にとって幸運だったのは、本多忠勝という猛将が強い忠誠心を持っていたことでしょう。

もし忠勝が家康のもとを離れることがあったなら、徳川の歴史は大きく変わっていたのかも知れません。

1590年に家康は豊臣氏傘下に入っており、秀吉は忠勝を自分の家臣に召抱えようとしたが、忠勝はこれ

を受け入れず主君・家康へ忠誠の意思を強く示したという。

本田忠勝・岡崎城(1548-1610年)
ho.本多忠勝 002

この当時、秀吉は全国制覇に王手をかけた天下人であり、一方の家康は関東に配置換えをさせられた時

期であり、どちらの立場が有利かは一目瞭然だったのにもかかわらず、家康の家臣であることを望んだの

です。

忠勝にとって忠義を貫き主君を守るのは、自分の身を立てる以上に大切なことであり、姑息な裏切りなど

言語道断、家康のために命をかけて戦うことが彼の美徳であったのでしょう。

ついに「関が原の戦い」まで槍を振るい続け、家康を天下人の座に押し上げ、忠勝にとっても長年の夢が

叶った瞬間であった。

ところが、徳川幕府創立後の忠勝は決して恵まれていたとはいえません。

それまでの功績からいっても幕府の中枢に置かれても不思議ではなかったが、新しい時代が求めていた

のは政治力、泰平の世にあって槍で突くべく敵はおらず、忠勝の武力はもはや必要でなくなっていた。

1609年には息子に家督を譲って隠居、その翌年、かつて戦場の轟音と正反対の静けさのなか63年の人

生に幕を閉じています。

忠勝は死の数日前に小刀で彫り物をしていて、うっかりと自分の指に切り傷をつけている。致命傷になる筈

もないこの小さな傷こそ、彼の生涯で唯一の傷であったそうです。

57回もの合戦を無傷で生き抜いた忠勝には、やはり強い運が味方していたのでしょう。ひとつの傷は彼の

運が尽きたことを意味し、そしてその運は乱世と戦場のなかでしか輝くことができなかったのかも知れませ

ん。



平清盛は暫く休ませて戴き、またモチベーションが上がってきたら再開したいと思います。


昨日は、広島から岡山に移動し、岡山城と備中高松城を巡りました。
岡山城
ok.岡山城 201202010 001
備中高松城
bi.備中高松城 20120210 001

今日は、100名城・備中松山城と鬼ノ城に向かいます。



外出中のため「戦国クイズ」は、お休みにさせて戴きます。


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No title

 本多忠勝には『剛将』というイメージを強くもっています。主君として、彼ほどの家臣を持てた家康は幸せだったでしょうね。平和な世になってからは不遇でしたが、徳川四天王筆頭の実績は凄いですよね。
 晩年、何を思い、日々暮らしていたのか、興味をそそります。

なおまゆ さま

コメントありがとうございます。

本多忠勝には、戦うマシンを連想してしまいます。
戦国無双でも、やられっぱなしです。
正信さんと忠勝の会話を一度でいいから、聞いてみたいですね。^^
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