平清盛 その8 『公卿の台頭』

平清盛 その8 『公卿の台頭』

成長して2度ほど、清盛は忠盛に向かって、わたしの母は、と訊ねたことがある。

2度とも忠盛は、それに答えず視線をそらしてしまった。

父に秘密がある。と気づいたのか、それきり清盛は自分の母のことを問うとはしなかった。子供の頃から、

人の何倍も意地が強く、このまま自分の家を継いだら、どういう人物になるだろうか、と忠盛は恐ろしい

心地さえする。

それは、家来の家貞も同様であった。学問はもちろん、風流の道も清盛は父から教えられているし、やが

ては平家の総帥として、武士たちを率いる人物になろう。と将来を楽しみにしている。

「だが」

と忠盛は、佐伯五東次の娘のことから、話題を変えた。

「わしもそなたも、公卿に遠慮せずに、われなりの行き方で押し通そうぞ」

「はい、わたくしも左様に存じておりまする」

このまま藤原家の栄華が続き、朝廷を中心にした公卿の政治が天下を収められると、忠盛も清盛も考え

ていない。

京都八坂神社の忠盛燈籠
ya.八坂神社の忠盛燈籠

平安朝のころの政治は、唐の国の大宝律令を真似て、租税は全国の農民から集められる。

公卿、寺院、神社などは、それぞれの私有の田畑を持っているが、そこから朝廷へ税を納めようとはしな

い。

それを荘園といい、公卿は荘園からの収入で栄華を極めているが、国庫は自然に収入が減って、朝廷の

実力は公卿へ移って行った。

しかも、公卿は、国司に任ぜられても任地へ赴かず、荘園は目代という代理人が管理をした。

加えて、国有地の農民は私有地の荘園へ流れていき、公卿の家来の武士が自然に勢力を持つようにな

った。

栄華を極めた藤原氏の勢いが、一族の間での争いが原因になり、次第に衰えて行く時代に武家の代表

として平家と源氏が頭を持ち上げてきたのであった。

「長袖の公卿たちでは、もはや天下を治められられぬ時がきている」

清盛に向かって忠盛は、はっきりと言った。

こんどの海賊退治が功績になって、平忠盛は但馬守に任ぜられ、土木のことを司るよう、朝命を受けた。

これは鳥羽上皇が得長寿院の建立を計画したからであった。

これにより忠盛は内昇殿を許された。昇殿とは、御所の清涼殿の南面にある殿上の間に上がることを許

されることであるが、公卿でもすべてが許されている訳ではなく、殿上を許された人々を殿上人、登上と

いい、許されてない者たちは地下人と呼ばれる。

sakura 20120121 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 劣悪な牢に入れられたため
         荒木村重が信長に対して謀反を起こし、有岡城に籠城したため、これを説得するため
         有岡城に乗り込んだが、成功せず逆に捕縛されてしまう。
         有岡城は落城し孝高は救出されたが、長期に渡って劣悪な環境の土牢に押し込められて
         いたため、左脚の関節に障害が残り、歩行や騎行がやや不自由になり、以後は合戦の指揮
         も輿に乗って行なったそうです。

≪本日の問題≫


                     <参考文献:武将列伝源平編(海音寺潮五郎著)、平清盛(村上元三著)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ