戦国大名と対決した信徒衆 「一向一揆」 その4

『蓮如の布教方法』

蓮如ら本願寺派の最初の地盤は、近江の琵琶湖のほとりの村々だったという。

ことに湖南の湖が最も狭くくびれたところに位置する堅田は、すでに蓮如の活躍する以前から、本願寺派

の有力な拠点であった。

この地には堅田衆と呼ばれる湖の水上交通を握る勢力があり、古くから商業と運送業に従事していた。

この堅田衆が、初期の本願寺を支えるうえで大きな役割を果たしていた。

今も、かつての堅田衆の居初(いそめ)家の屋敷や庭園が、その昔の名残を伝えています。

蓮如の時代に本願寺派が驚異的に伸びた背景には、こうした地方の民衆の組織が持ちえた経済力があっ

たことは大きいでしょう。

蓮如(1415-1499年)
re.蓮如

日本の歴史のなかには、数々の民衆の優れた組織者や政治化が挙げられますが、この蓮如を挙げる人

も少なくありません。

その理由とは、

なぜ、蓮如は民衆の心を掴んだかというと、まず民衆と平等だという意識だという。

真宗の世界においては、蓮如も末々の門徒も御同萌・御同行だということです。決して自分が高いところ

に立たない。説法する場合、普通は一段高いところからするのが普通ですが、蓮如の場合は台に乗らな

いで聴く民衆と同じ高さだったという。

蓮如はこんなことを言っているそうです。

人に法を説く時にけむたがられるなよ。上臈(じょうろう)ぶるなよ。貴族ぶるな。大物ぶるな。そしたら嫌ら

われるぞ。と、

また、民衆の中に入ったら、まず聴くことは

「あなたたち、何を食べているの?」、「稗(ひえ)の粥(かゆ)です」

蓮如は、門徒が稗の粥、粟の粥を食べていると言うと

「おれもそれが好きなんだ、ぜひ粥を食わせてくれ」

と言って、その粥を食べながら、法を説いたという。

薦(こも)をかけたような家、薦をかけたというのは戸のない乞食の住むような家です。

こんな所にも、わざわざ出かけて法を説いたという。


本ブログは宗教の記事ではなく、戦国武将と対決した一向一揆について記したものです。
従いまして、宗教等についてのコメントなどの対応はできませんので、あらかじめご了承願います。

sa-ko 20120122 001

ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村

いつも応援ありがとうございます。

『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 崇徳上皇
         保元の乱は、平安時代末期の保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内紛に
         より朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変です。

≪本日の問題≫


                                   <参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ