戦国大名と対決した信徒衆 「一向一揆」 その7

『武士に利用された一揆』

本願寺の寺院は、近世の城と良く似ています。

富山県井波の瑞泉寺もそのひとつです。

高まりを見せた本願寺門徒の勢力が、なぜ信長や家康などの戦国大名の前に屈したのでしょうか。

門徒の勢力のなかに大勢の武士が加わったことが、ある一面では一揆勢の戦闘力を増すとともに、また絶え

ざる内部抗争と裏切りを引き起こす原因ともなった。

1574年、越前に起こった一向一揆の末路は、まさにそれであった。門徒勢力が互いに抗争し合う隙を、織田

信長の軍隊に攻撃されて一気に惨敗した。

その時起こった悲劇を一枚の瓦が証言しています。瓦が発見されたのは、福井県武生市の小丸城の跡です。

「信長の麾下(きか)前田利家が、一揆勢の捕虜千人余りを磔にかけ、あるいは釜であぶり殺した」

とこの瓦の文字は語ります。

凄惨な虐殺の光景を目撃した一揆側の生き残りの一人がこの悲劇を後世に伝えるべく密かに書きつけたもの

でしょう。

織田信長(1534-1582年)
od.織田信長公

武士というものは、もともと弥陀の本願に惚れ込んで入ってきたのではないのでしょう。自分の支配するムラ

の農民が本願寺の門徒になって、自分が支配しきれなくなって、自分も仲間になっていった、つまり偽装入党

・偽装入信であったと思われます。

そして、自分に向けられた農民の反抗エネルギーを、その上に立つ守護に対して向けてゆく、これが一向一

揆の本質ではないのでしょうか。

加賀の国は一揆が成功しています。

成功した後には、指導的役割を持った武士たちや有力な坊主たちが加賀の支配権を握って、約一世紀の間、

親から子へ、子から孫へと集団指導を行っていた。

織田信長が出て、本願寺とぶつかると、一向一揆を利用して政界に出ようとしていた武士たちが自分の将来

を見て、これを天秤にかける。

本願寺に忠節を尽くすのが自分の将来の栄光への道か、あるいは織田信長に忠節を尽くすのが道か、ここ

で急に、一揆の勢力は加賀も正に半分に分かれ、有力な指導者が信長側についたという。


本ブログは宗教の記事ではなく、戦国武将と対決した一向一揆について記したものです。
従いまして、宗教等についてのコメントなどの対応はできませんので、あらかじめご了承願います。

sakura 20120126 001

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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 松平 元康
         1560年、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏の混乱に乗じて
         岡崎城へ入城すると今川と決別し、信長と同盟を組みます(清洲同盟)。
         この後、元康は家康に名を改め、信長の盟友として、三河国・遠江国に版図を広げ、1567年
         には、それまでの松平氏から徳川氏に改姓し、徳川家康となっています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:日本史探訪(角川書店編)>
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