日本百名城68 備中松山城
南御門や平櫓が再建され、本丸の威容が蘇る
『臥牛山上に築かれた近世屈指の山城』
備中松山城は、秋葉重信が1240年に築いたのが最初とされます。
城がある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利家などの城塞として
機能していた。
備中松山城天守(岡山県高梁市)

城主は時代とともに、共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷しています。
戦国時代の三村元親の時代には、大松山・小松山を範囲とする一大城塞となり、現在も石垣の一部が残っ
ています。
1574年、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返り、翌年にかけて三村氏と毛利氏の争い(備中兵乱)
が続いた。
城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。
備中兵乱の後は、毛利氏の領有となっています。
江戸時代になり、小堀親子(遠州)の修築を経て、1681~84年に水谷勝宗の大改修で近世三大山城とされる
最終的な城の形となっています。
城の縄張は4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の本丸に建っています。
二重二階の天守は現存する天守の中では最小ですが、日本一高いところに建っています。
平成9年に本丸南御門をはじめ平櫓・土塁などが再建されています。
平成24年2月10日
岡山市街を8時30分に出発し、岡山自動車道の賀陽ICを経由して9時50分に「ふいご峠」に到着しました。
平日の午前中ということもあり、駐車場には車は止まっていません。

ふいご峠の駐車場から、遊歩道的に整備された山道を700mほど登ると、天守に登城できます。
ほぼ中間地点に突如「中太鼓の丸跡」の石垣が出現します。

更に、こんな石段を登ります。

大手門跡付近の石垣
人工的に築かれた石垣と天然の岩盤が融合した高石垣は圧巻です。
正面が大手門の石垣 大手門右側の天然岩盤と融合した石垣

この岩盤は、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっているそうです。
さらに、巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。
これらの影響で上部の石垣が変形しており、将来崩落する危険があるそうです。
二の丸から望んだ現存天守(右上)と再建された五の平櫓(中央)と六の平櫓(左)

現存天守
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守です。
天守は南面に唐破風付出窓、東面に入母屋造の突出部が付けられ、凝った意匠の外観になっています。

天守入り口
現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から
渡櫓を経て天守へ至ったそうです。

天守1階
1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られていますが、城内で火を使うことは禁じられ、殆ど
使われることはなかったという。

天守2階
本当に小さい城ですが、木造の現存天守はいいですね。

日本百名城スタンプ(No68 備中松山城)

今回の旅で一番楽しみにしていた「現存天守・備中松山城」に登城できましたので、岡山駅前の桃太郎
くんに挨拶して、岡山を後にしました。

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いつも応援ありがとうございます。
『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上月城の戦い
上月城の戦いは、1578年に播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦で、
この合戦で尼子氏は織田信長から見捨てられた形で、滅亡しています。
≪本日の問題≫
『臥牛山上に築かれた近世屈指の山城』
備中松山城は、秋葉重信が1240年に築いたのが最初とされます。
城がある臥牛山は中国山地と瀬戸内とを結ぶ交通の要衝を見下ろす位置にあり、毛利家などの城塞として
機能していた。
備中松山城天守(岡山県高梁市)

城主は時代とともに、共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷しています。
戦国時代の三村元親の時代には、大松山・小松山を範囲とする一大城塞となり、現在も石垣の一部が残っ
ています。
1574年、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返り、翌年にかけて三村氏と毛利氏の争い(備中兵乱)
が続いた。
城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。
備中兵乱の後は、毛利氏の領有となっています。
江戸時代になり、小堀親子(遠州)の修築を経て、1681~84年に水谷勝宗の大改修で近世三大山城とされる
最終的な城の形となっています。
城の縄張は4つの峰にまたがり、天守は標高430mの小松山の本丸に建っています。
二重二階の天守は現存する天守の中では最小ですが、日本一高いところに建っています。
平成9年に本丸南御門をはじめ平櫓・土塁などが再建されています。
平成24年2月10日
岡山市街を8時30分に出発し、岡山自動車道の賀陽ICを経由して9時50分に「ふいご峠」に到着しました。
平日の午前中ということもあり、駐車場には車は止まっていません。


ふいご峠の駐車場から、遊歩道的に整備された山道を700mほど登ると、天守に登城できます。
ほぼ中間地点に突如「中太鼓の丸跡」の石垣が出現します。

更に、こんな石段を登ります。

大手門跡付近の石垣
人工的に築かれた石垣と天然の岩盤が融合した高石垣は圧巻です。
正面が大手門の石垣 大手門右側の天然岩盤と融合した石垣


この岩盤は、巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっているそうです。
さらに、巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。
これらの影響で上部の石垣が変形しており、将来崩落する危険があるそうです。
二の丸から望んだ現存天守(右上)と再建された五の平櫓(中央)と六の平櫓(左)

現存天守
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守です。
天守は南面に唐破風付出窓、東面に入母屋造の突出部が付けられ、凝った意匠の外観になっています。

天守入り口
現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から
渡櫓を経て天守へ至ったそうです。

天守1階
1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られていますが、城内で火を使うことは禁じられ、殆ど
使われることはなかったという。


天守2階
本当に小さい城ですが、木造の現存天守はいいですね。


日本百名城スタンプ(No68 備中松山城)

今回の旅で一番楽しみにしていた「現存天守・備中松山城」に登城できましたので、岡山駅前の桃太郎
くんに挨拶して、岡山を後にしました。

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『戦国クイズ』
≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上月城の戦い
上月城の戦いは、1578年に播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦で、
この合戦で尼子氏は織田信長から見捨てられた形で、滅亡しています。
≪本日の問題≫
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コメントの投稿
No title
高梁訪問ありがとうございます。
ちなみに大手門付近の石垣の傾斜センサーはマチュピチュに設置してあるセンサーと同型です。
ちなみに大手門付近の石垣の傾斜センサーはマチュピチュに設置してあるセンサーと同型です。
No title
こんにちは~
現存の木造天守。
たまりませんっっ!!!
想像するだけでうきうきします。
現存の木造天守。
たまりませんっっ!!!
想像するだけでうきうきします。
議長 さま
コメントありがとうございます。
ループ橋では目が廻りそうでしたけど、高梁の街並みも素敵な
ところでした。♪
天然の岩盤に頑張って欲しいものですね。
ループ橋では目が廻りそうでしたけど、高梁の街並みも素敵な
ところでした。♪
天然の岩盤に頑張って欲しいものですね。
みゅった さま
こんにちは、
木造天守は最高ですね。☆
戦国武将の吐息が伝わってきそうです。
みゅったさんの登城はまだかな?
誰もいない城を貸切で楽しんできました。
天守は小さいので、別荘にちょうどいいサイズですよ。
木造天守は最高ですね。☆
戦国武将の吐息が伝わってきそうです。
みゅったさんの登城はまだかな?
誰もいない城を貸切で楽しんできました。
天守は小さいので、別荘にちょうどいいサイズですよ。