立花一族 その14 「宗茂の戦略」

『宗茂の戦略』

岩屋城を陥れた島津勢は宝満山城に使者を使わして、城を明け渡せよと要求した。

この城は元来筑紫氏の持城であったが、当主・筑紫広門が島津家に捕らえられたので、宝満山城に残っ

ていたのは筑紫氏の家臣らが広門の娘婿である高橋統増を迎えて、城主と仰いでいたのであった。

統増はこの時15歳であった。

城中の人員が複雑な構成であったから、はかばしい籠城は出来ないと判断し、開城することで相談一決し

て島津家へ申し込む。

「主人・統増と故紹運の妻・宗雲を無事に立花城へ送り届けてくださるのなら、開城いたしましょう」

「申し超さるる趣き承知でござる。相違あるまじく」

と島津家では返答した。

これで開城となったが、この島津方の約束が真っ赤なウソであった。

統増を立花とは反対の肥後の吉松(熊本県植木町)に、紹運の未亡人を筑後の北ノ関(山門・三池・玉名

の境)に連れて行き、番衆を付けて監視した。

立花城
ta.立花城址

こうして宝満山城を受取ると、島津軍はこの城と岩屋城を秋月種実に渡して、立花城に使僧を使わした。

「ご存知でもござろう。岩屋城も宝満山城もわれらが手に帰し申した。貴辺のご舎弟と母君もわれらが手に

ござる。無益なる籠城をなさるより、降参あれ。さもなくば、押し寄せ、即座に踏み潰し申すでござろう」

宗茂は、秀吉の命を受けた毛利三家(毛利・吉川・小早川)の軍勢が中国路から来ることを連絡によって知っ

ているから、それまでの時間を稼ぎたい。

宗茂は、こう答えた。

「ご懇諭を拝承しましたが、それについて立花の地は従前通り、拙者に賜りとうござる。さなくば、武士として

よき働きが出来申さぬにより、お断り申すほかはござらぬ」

島津方では、肥後の八代に来ている島津義久の許にこの返答を持って行き、指図を仰ぎ、

「立花の城はこちらにお渡しあれ。かわりに筑前の早良郡に荒平城をつけて進ぜるでござろう」

だいぶ時間も稼いだので、今度は本音を吐く、

「心得ぬことを仰せられるものかな。城の名と拙者の名字は切って離せぬものがあるを、何とお考え遊ばす

ぞ。当城の名も拙者の名字も、すでに関白殿下さえご存知でござる。されば天下の人皆知っていることでご

ざる。その名字の起こりである当城を捨てよと抑せられるのでござるかな、なり申さぬ。

ことさら、拙者はこの頃毛利氏へ助勢を乞い、人質を差し出し、鉄砲も多数送りよこされ、近々にはうしろ巻

きの軍勢も参ることになっています。今さら貴殿方へ降伏など思いもよらぬこと」

愚弄されたようなものです。

島津方ではかんかんに腹を立てたが、岩屋城攻撃に相当痛手い損害を受けているうえに、暑熱のひどい

季節です。腹が立ったからとて、すぐ攻撃には出られない。

そのうえ、毛利三家が秀吉の命を受けて、九州征伐の西部先鋒部隊として来ることが事実との情報が入

った。

sakura 20120223 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 筑後柳川
         秀吉は、立花宗茂の九州征伐での功を認めて、筑後柳川13万2,000石を与え大友氏から
         独立した直臣大名に取り立てています。

≪本日の問題≫


                                    <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎暑)>
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