『No2の存在が、No1の価値を決めた?』

『No2の存在が、No1の価値を決めた?』

後世に語り継がれている武将とて、ひとりで戦い、ひとりで有名になった訳ではありません。

その片腕となったのが、No2の存在でした。

「軍師」や「軍配師」と呼ばれる人物です。

軍師というと、豊臣秀吉についた「両兵衛(竹中半兵衛・黒田官兵衛)」や、「啄木鳥の戦法」で有名な武田

信玄に仕えた山本勘助など、作戦の参謀をしていたというイメージが強い。

しかし、彼らが活躍する以前の軍師は少し様子が違っていました。

当時の戦は、日時、方角、運気などが勝敗に影響すると思われていたのです。

戦に負ければ、領地・領民・名誉はもとより、自分の命まで失うことになるのです。そこで、易学の専門家で

ある陰陽師の指示を仰ぐようになっていた。

これが軍師のルーツなのです。

竹中半兵衛(1544-1579年) 黒田官兵衛(1546-1604年)
  ta.竹中半兵衛 001        ku.黒田官兵衛

陰陽師の役割をした軍師としては大友宗麟の軍師・角隈石宗がいます。

1578年、大友宗麟と島津義久の九州の覇権をかけた耳川の戦いの前に、宗麟は石宗に出陣の日時など

を占わせたが、その結果は最悪であった。

理由は3つ

1つ目は、宗麟が49歳で厄年だったこと。

2つ目は、戦いの場所です。日向は豊後から見て未申(南西)の方向となり、方向が悪いこと。

3つ目は、前年から出ている彗星の光の尾が西に伸びているのは、凶兆であること。

しかし、宗麟は前年に日向延岡城を簡単に落とし、島津軍を侮っていた宗麟は、それを聞き入れずに出陣

したのです。

結果は惨敗。これを機に大友氏の衰退が始まっています。石宗の占いは当たったのです。

なんだ軍師というのは占い師と誤解してしまいそうですが、軍師は易学の他にも地理学、気象学、心理学、

医学、歴史、兵法などあらゆる知識に長けていなければならなかったのです。

その中でも重要な学問のひとつとして、兵法があります。

軍師のなかで広く読まれていたのは、中国の兵法書「孫子」と「呉子」などです。

これらの知識を応用し、戦の作戦を立たり、戦中の臨機応変な判断をしていたのです。

戦いが峻烈の度を増すにつれ、軍師には多様な知識が求められるようになり、半兵衛や官兵衛のような

大将の片腕として戦いを動かしていく有能な軍師が生まれています。

sakura 20120515 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 徳川方
         大坂の陣のとき、家康は宗茂が豊臣方に与するのを恐れて、その説得に懸命に当たった
         という。
         そして大坂夏の陣は、将軍・徳川秀忠の麾下に列してその軍師参謀を兼ね警固を担当し、
         毛利勝永と交戦しています。

≪本日の問題≫


                    <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会(編)>
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