前田利家 その8 「利家、“おまつ”と結婚」

「前田利家、“おまつ”と結婚」

前田利家が正式に信長から勘気を赦免されたのは、1561年5月、美濃の斎藤竜興の臣家と信長が戦った

森部合戦における武功によってであった。

この時も、利家は密かに参陣すると、真っ先に敵中へ突入し首二級をあげて信長に捧げた。うち一級は豪傑

の首であったので、さしもの信長も武功を認めざるを得なくなり、

「手柄であったぞ」

と声をかけ、優しく話したという。

最初に勘気を受けてから足かけ3年目のことであった。

利家は桶狭間の武功をあわせて300貫の加増を受け、清洲城下の侍屋敷に妻・お松とようやく落ち着いて

所帯を持つことになった。

この頃に木下藤吉郎(秀吉)も、ねねと結婚して同じ侍屋敷の一隅にある長屋で、生垣ひとつ隔てた隣家に

新所帯を構えていた。

両家は夫婦ぐるみで親しく交際を重ねるようになるが、秀吉と利家、ねねとお松との生涯を通じての付き合

いはこの時から始まったのです。

1562年、前田家に嫡男・利長が生まれた。

織田家臣団に返り咲いた利家は、体力才知ともに優れた武勇をもって編成された馬廻衆一員に加えられて

います。

赤母衣衆
ak.赤母衣衆

1569年夏頃、信長は馬廻衆の中から武功の者20人を選んで母衣衆を編成した。

母衣は背に負って矢を防ぐ武具です。

五幅の布で作り、上下に紐がついていて、上の紐は鎧の後ろの母衣に結び、普段は下部の紐を腰に結ん

で背におうが、矢が激しく飛来すると頭からかぶり、馬の頭部も一緒に覆う。

後ろには鯨髭で母衣籠を作り、母衣をその上にかけて一種の装置とした。

利家は信長の赤母衣衆9人の中の筆頭に選ばれたが、その際、

「ありがたき仰せながら、拙者は若輩者でござれば、それはご辞退申したく存じまする」

「年は若いが、武功は老いている。辞退することはない」

と信長は押し付けるように赤母衣を用いさせたという。

これは利家が31歳のことであり、当時の武士にとっては非常に名誉のことであったのでしょう。

同じ頃、利家の長年にわたる敵となった佐々成政は、黒母衣衆11人の筆頭に選ばれています。

木下藤吉郎(秀吉)は、1566年に美濃の墨俣城を一夜のうちに築造した功によって、すでに兵3千を預か

る城主になり、槍の又左が名誉ある赤母衣武者に選ばれ、その3年後には明智光秀、丹羽長秀など領袖と

並んで、布令に署名するまでになっていた。

この両者を比較して見ると、武勇抜群の利家と、政・軍略家としての秀吉と、天性の才能の違いが僅か数

年間のうちに、かなり鮮明に出てきています。

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 今川方に参陣
         沓掛城に入った今川軍は、5月18日夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、
         大高城に兵糧を届けさせています。
         翌19日3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦を攻撃しています。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑>
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