前田利家 その12 「長篠の戦い」

『加賀百万石の礎を築いた前田利家』

「長篠の戦い」

1575年2月、長篠城は、武田信玄が三河に侵入して以来、武田方の属城になっていたが、信玄の没後、

徳川家康はさっそく武田領への侵略を始めて、長篠城主・菅沼正貞を追出すと、信玄没後、武田方から

徳川へ走った奥平定昌を長篠城主とした。

これを知った武田勝頼は大いに怒って、4月5日、1万5千の大軍を率いて長篠城に迫った。

城方の将兵は僅か5百人に過ぎなかったが、武田方に人質として送ってあった妻子を殺害されている城主

・奥平定昌の抗戦の意思は固かった。

激しい攻防が繰り返されるうちに日が過ぎた。

籠城の間、鳥居強右衛門が武田方の厳しい包囲陣を潜行突破して、危急を岡崎城の家康へと伝えたのは

5月15日のことであった。

ちょうどその頃、信長は家康からの援軍要請に応じ3万の兵力で岡崎に到り、徳川軍と合流して長篠から

の知らせを待っていた。

長篠の戦い屏風図
se.設楽ヶ原の戦い屏風絵

忠烈の蜜使、鳥居強右衛門の決死の連絡により、長篠城が勇敢に防戦を続けるうちに5月18日、織田・

徳川連合軍3万8千は設楽原に到着すると、連子川沿いに2重、3重の柵を長々と巡らし、柵内におびただ

しい鉄砲を配置して待機した。

設楽原は西北と東南の両側を丘稜に挟まれた細い高原で、連子川が流れている。

このような地形では、武田軍の得意とする長槍騎馬隊の密集突撃が思うようには出来ないと推量して、信

長はこの地に布陣した。

19日、武田軍も軍議を催し、長篠城の抑えに一部の兵を残して出撃することに決めると、翌20日、設楽原

に移動して鶴翼13段の陣を布いた。

そして5月21日早朝、甲州流軍法の押し太鼓が鳴り響き、武田軍の長槍騎馬隊が突進を開始した。

しかし、織田軍の眼前で騎馬が柵に阻まれたところへ、柵内から銃火が炸裂した。

この合戦は信長が新兵器たる鉄砲の威力で武田軍を撃破、壊滅させ、日本戦史上にエポックを残した戦い

であった。

3千の鉄砲を3段に配備し、順繰りに間断なく発射させるという信長の策戦勝ちです。

その織田軍鉄砲隊の奉行5人のなかの一人に、前田利家の名が挙げられています。


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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 浅井長政が信長から離反したため
         織田信長が越前への侵攻を開始すると、朝倉氏との縁(同盟関係、主従関係とも)も深かった
         浅井長政は信長から離反し、織田軍の背後を襲ったため。

≪本日の問題≫


                                     <参考文献:前田利家(井口朝生暑>
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