『日本は、いつから「日本」と称するようになった?』

『日本は、いつから「日本」と称するようになった?』

大和魂という言葉は、かつて日本が「大和国」と称したことからきています。

この国号が用いられるようになったのは、757年の養老律令施工以来で、それまでは「大倭」の字が当てら

れています。

それは漢代の中国が日本を「倭」と呼んだことに基づくそうです。

1784年に博多湾の志賀島で発見された「漢倭奴国王印」は、漢の光武帝が日本の使者に与えたものとさ

れます。

これは天子が臣下に与える印なので、日本を見下ろしたものなのでしょう。

その「倭」に大をつけた「大倭」の号には、日本は中国の臣下ではないという気持ちがあったのでしょう。

では、「倭」、「大和」と称していたわが国が「日本」という国号を用いるようになったのは、いつ頃からなの

でしょう。

吉野ヶ里(よしのがり)
弥生時代の環濠集落で、日本百名城88に登録されています。 登城記は「こちら」です。
20110202 吉野ヶ里

中国の史書には648年(大化4年)、日本から来た使者が「倭国は、みずからその名を嫌って日本と改めた」

と語った旨の記載があるという。

この国号の由来は正確にはわかりませんが、通説では推古朝の隋への国書に記された「日出づる処」の一

文からきているものとされる。

ともあれ、日本の国号が公式に使われたのは、702年の遣唐使・井真成の墓誌にも、「国は日本と号す」と

記されています。

現在、「日本」はニホンともニッポンとも読みますが、国号にされた当時は、どのように読んでいたのでしょう。

室町時代の「日葡辞書」には、“ニッポン”、“ニホン”、“ジッポン”とあるそうですから、昔も今も読み方は同じ

であるようです。

sa-ko 20120422 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 近習や寵童
         当初の北面は近習や寵童などで構成されていたが、院の権勢が高まると摂関家に伺候して
         いた軍事貴族も包摂するようになり、その規模は急激に膨張したそうです。
         新たに北面に加わった軍事貴族は、それぞれがある程度の武士団を従えた将軍・将校クラス
         であり、延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで千余人に達したという。

≪本日の問題≫


                       <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>
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No title

こんばんは、りんご村のシルルと申します。

日本はいつから日本かって面白いですね。
日本と名乗ってる古代の日本という国は、どこからどこまでが日本だったんでしょうね。

古代は触れると興味深い事が多くて面白いデス♪

りんご村のシルル さま

こんにちは、
コメントありがとうございます。

住んでいながら、古代のことはあまり考えたりしないでよね。
調べてみると、結構面白いかもしれませんね。

> 日本と名乗ってる古代の日本という国は、どこからどこまでが日本だったんでしょうね。

これも、そのうちのひとつですね。
おそらく琉球と蝦夷は違うでしょうから・・・。

以前、青森で弥生時代の遺跡が出たとのことでしたので、おそらく九州、四国、
本州だったのでしょうか。
歴史と領土を調べると、面白いでしょうね。☆
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