「大坂の陣」を誘発させた方広寺鐘銘

「大坂の陣」を誘発させた方広寺鐘銘

方広寺は、豊臣秀吉により1586年、奈良・東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、1595年に完成して

います。

方広寺(登院日:平成24年4月8日)
ho.方広寺 001
<画像は全てクリックで拡大します>

この大仏は、東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったという。この大仏殿の釘などは刀狩で没収した

武器の再利用されたものも使われたという。

しかし、1596年慶長伏見地震により倒壊し、その後、豊臣秀頼により再建されますが、1798年落雷による

火災で焼失した後は同様の規模のものは再建されなかった。

豊臣氏当時ものとしては梵鐘が残っていますが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が徳川

家康の“家”と“康”を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒とくしたと看做され、大坂の役による豊臣

家滅亡を招いたとされます。

この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされます。

大仏殿跡には豊国神社が再建されていますが、平成12年発掘調査により東西約55m、南北約90mの規

模であったことが判明しています。(豊国神社訪問記は、「こちら」です。)


「国家安康の鐘」
1614年京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造され、大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さ

は82.7トンあります。

ho.方広寺梵鐘 001 ho.方広寺梵鐘 002

ho.方広寺梵鐘 003 ho.方広寺梵鐘 004

「国家安康」「君臣豊楽」の銘文に、家康はその文言に重大な言いがかりをつけています。

「国家安康」という句は家康の名を切ったものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌

を楽しむ、と解釈し、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと激怒し、「大坂の陣」へ進む口実にしたという。


家康さんは銘文に激怒したけど鐘は残っていますので、銘文などに関心はなかったのでしょうね。

「大黒天像」
桓武天皇の勅命により最澄(伝教大師)が延暦寺を建立するため、比叡登山中のお告げにより彫刻された

と伝えられるものです。

ho.方広寺梵鐘 005 ho.方広寺梵鐘 006



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≪昨日の解答≫
昨日の正解: 利長
         前田利長は、加賀藩祖である前田利家とまつ(芳春院)の長男(嫡男)として生まれて
         います。初名は利勝で1589年頃、利長と改名。
         秀吉没後から徳川幕府成立に至る難局を、苦渋の政治判断により乗り越え、加賀藩の礎
         を築いています。

≪本日の問題≫

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