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戦乱の世の結婚式

『結婚式には “三三九度” も “お色直し” もあったの?』

戦乱の世でもちゃんと結婚式は行なわれていたようです。

そしてそこには、現代の結婚式でお馴染みの「三三九度」や「色直し」の原形が既にありました。

当時の武家の結婚式を再現してみると、

まず花嫁は輿に乗り、嫁入り道具の品々とともに花婿の家に向う。嫁入りのことを“輿入れ”と称するのは

ここに由来します。

ko.輿入れ

嫁入り道具は御貝桶、御厨子黒棚、荷い唐櫃(からと)、長櫃、長持、御屏風箱、行器など。

貝桶の中には、貝合せの貝(蛤)360個が2つの亀甲型の箱に納められていた。これは夫婦和合を象徴す

るもので、婚礼の儀式には欠かせないものでした。

また、唐櫃や長櫃、長持の中には花嫁の衣装や化粧道具、調度などが入っていたそうです。

上級武家の娘の嫁入りともなると嫁入り行列は豪華を極め、武田信玄の息女・黄梅院が北条氏政へ嫁入

りする際は、御供衆3000騎1万人、輿12挺、長持42挺が連なる大行列であったそうです。


現代では花嫁衣裳は洋装・和装とも先ずは白ですが、それは当時も同じで白は清浄を表すとともに、無地

で相手方の家に入るという意味も持っており、花嫁は「うは着にさいはい菱、白き小袖うちかけたるべく候」

(嫁入記)、すなわち幸菱を浮織にした白綾の小袖と打掛姿。

そして夫婦愛敬の護符を収めた守り袋を胸にさげていました。

婚礼が行われるのは夜で、婿の家の門前には門火が焚かれ、中門または玄関入口の妻戸で婿方の役人

による貝桶と輿の受け渡しが行われます。

輿を降りた花嫁は侍女臈の介添えにより、先ずは化粧の間と称する控え室に案内され、やがて白直垂姿

の花婿が入室し、花嫁と向かい合って座につく。

花嫁と花婿はこのとき初めて顔を合わせたのです。

祝言の席といっても親族など他の人の列席はなく、この場にいるのは花婿と花嫁、侍女臈のほか酌・給仕

を努める侍女が数名のみでした。

式の中心は盃事で、盃3つを載せた膳と第1から第3の膳が用意され、式三献が行われた。これは侍女3

名が銚子・提で嫁、婿、侍女臈の順に酒を進め、3度ずつ注ぎ、3度繰り返すというものです。

いわゆる“三三九度”ですが、現代のように新郎と新婦が盃を交し合う訳ではなく、さらに侍女臈を加えた

3人で行う点が大きく異なっていました。

式が終わると花婿と花嫁は身を清め、寝所に入ります。

この寝所の布団の敷き方にもしきたりがあって、花嫁の布団を先に敷いて、その後に花婿のものを敷き、

その配置は、“おとこの左に女のなるように”(花嫁記)枕は東または南になるように床を取ったという。

花婿と花嫁は婚礼の翌日まで白装束で過ごし、3日目に色柄の着物に改めた。これを“色直し”といい、

色直しが済むと初めて花嫁は舅・姑をはじめ花婿の親族達と対面することになります。

これが江戸時代になると、盃事が終わった直後に色直しが行われるようになり、また祝言の席に舅・姑も

同席するようになるなど、現代の結婚式にだいぶ近づいています。

sakura 20120707 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 中忍
スミマセン、完全なひっかけ問題でした。
忍者といえば、伊賀と甲賀が有名ですが、忍者は上忍、中忍、下忍に身分が分かれており、甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされていました。
上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配し、中忍は下忍達を率いる小頭(こがしら)だったそうです。
実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達だったと言われています。

≪本日の問題≫


                       <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

忍者は普段、どんな格好を

『忍者は普段、どんな格好を』

忍者というと、伊賀者・甲賀者といった言葉に加え、お決まりの忍びの装束を連想しますが、彼らは日常

どんな格好をしていたのでしょう。

結論は、「ふだんは一般人と全く変わらない生活」をおくっていたということですが、目立たないが最重要

であったそうです。

忍者は諸国を渡り歩いて情報をかき集めるのが仕事ですから、普通の町人の格好をしていたのでは不

向きであったでしょう。

忍者といったら
ha.ハットリくん

そこで忍者は「七方出」という変装術を身に付けていた。すなわち、諸国を転々としていても不自然では

ない職業の人間に化けるのですが、それらは僧、虚無僧、山伏、商人、曲芸師、能役者、そして普段ど

おりの町人や農民のままの素の姿でした。

そして、得た情報を仲間と交換する際には「忍びいろは」という独自に作り出した漢字を使って文章を書

いたり、五色米という、赤・青・黄・黒・紫と塗り分けた米の組み合わせや配列で意味を表したり、あるい

は単純に狼煙をあげて合図を送るなど、様々な工夫がされていたという。

ちなみに、狼煙とは狼の糞に火薬を混ぜてつくっていたことから、狼の字が当てられています。

狼の糞を使うと、煙が高く上がったらしいです。

また、忍者は体が資本の仕事だけに、食べ物には気を使っていたようです。

いざという時には、指だけで天井にへばりつかなければならないこともあり、体重は約60kgに制限され

ていたが、体は鍛えなければならないので、基本的に低カロリー、高タンパク質の物を選んで食べたそ

うです。

例えば、湯葉や豆腐など大豆食品を多くとり、おにぎりも食後のインシュリン分泌の少ない玄米だった

そうです。

これでは栄養が偏ってしまうので、体力をつけるための食べ物として、その代表として「ゴマ」や「松の

実」だったそうです。特に「松の実」を食べると五感が冴えると信じられており、忍者たちは好んで食べ

ていたらしい。

うちの“うさーず”は、松ボックリも好きです。☆
ma.松の実

成人病予防には、忍者修行がいいのかも知れませんね。

やって見ようかなぁ~。

ume 20120706 001

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『戦国クイズ』


≪前回の解答≫
前回の正解: 下呂温泉
徳川家康から四代の将軍に仕えた儒学者林羅山により、兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と岐阜県の下呂温泉を「日本三名泉」と称しています。

≪本日の問題≫


                 <参考文献:いまさら聞けない長年の大疑問(歴史の謎を探る会編)>

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身の毛もよだつ謀叛者への残虐処罰

『身の毛もよだつ謀叛者への残虐処罰』

現代の法律と異なり、戦国時代の法制は極めて武断的なもので、刑罰も残虐なものが多かった。

しかも、どの程度の刑罰にするか明文化されておらず、決定者の恣意に任せられているため、支配者の

地位を脅かす謀叛者に対する刑罰は、厳しさを極めていた。

なかでも、激烈な性格が知られる信長の謀叛者に対する刑罰は激しいものがあった。

謀叛者本人は勿論のこと、人質、近親者、関係者すべて惨殺されている。

織田信長(1534-1582年)
od.織田信長公

いくつか、具体的な例を拾ってみましょう。

① 比叡山を焼き討ちしたり、門徒一揆を弾圧した信長は、鉄砲の名人といわれた杉谷善住坊という男に

 狙撃された。

 善住坊の撃った玉は2発とも信長をかすめ暗殺は未遂に終わるが、怒り狂った信長は執拗に捜査させ、

 捕らえます。

 信長は善住坊を上半身だけ出して土に埋め、竹でできた鋸で首を引かせた。善住坊は7日目に死んだ

 という。

② 信長の命令で石山本願寺を攻撃していた松永久秀がひそかに撤兵し、逆に信長に反旗を翻した。久秀

 は信長に男子2人を人質に出していたが、信長は人質の子供の処刑を命じた。

③ 伊丹城主・荒木村重が大坂の本願寺や中国の毛利に通じていたことが発覚、信長は激怒して伊丹城を

  攻撃。しかし、村重は城を脱出していたので、信長は村中の婦女子97人を磔に、家臣400人を火あぶり

 に、そして一族の30人も京都で車裂きの刑に。

④ 浅井長政と朝倉義景を滅ぼし、その2人と長政の父・久政の首を京都で引き回し、獄門にさらし、久政

 の妻を捕らえて10日をかけて10本の指を切って惨殺。さらに10歳の長男・万福丸を捕まえて串刺しに。


信長さんばかりになっていますので、他も少し並べてみます。

⑤ 長篠の合戦の直前、大賀弥四郎という徳川家康の家来が、武田勝頼に通じて岡崎城の奪取を企てたが

 未遂に。

 弥四郎は首板をはめられ、10本の指を切られ、地面に埋められ通行人に鋸で引かれ一日で死んだ。


この他にも、逆さ磔、牛を使う牛裂きなどの残虐な刑罰が行なわれていたが、これは江戸幕府によって処刑

が明文化されるまで続いていました。

sa-ko 20120526 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 備後国
福山城は、備後国(びんごのくに)にあって、領域は現在の広島県の概ね東半分にあたります。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>

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武将が入っていたお風呂とは?

『武将が入っていたお風呂とは?』

かつての日本では、風呂と湯とは別物でした。

風呂というのは「蒸し風呂」であって、いまでいうとサウナ形式の蒸気を浴びるもので、「湯」とはお湯に体

を浸すものでした。

これが次第に混同されて、風呂屋も湯屋も一緒になってしまったのが江戸時代でした。

風呂のはじまりは瀬戸内海の各地に残る石風呂、あるいは内陸部に残る釜風呂の跡から類推することが

出来るそうです。

先ず穴の中で火を炊き、床石や側面を熱しそこへ海藻や生木、塩水に浸したむしろなどを敷き詰め、蒸気

を発散させたのです。

塩分や海藻、植物の成分が含まれ、治療効果をもたらしたといいます。


福山城湯殿 (福山城登城記は、「こちら」です。)
fu.福山城湯殿


それと同じような蒸し風呂を一般化したのは寺院でした。

衆生済度のため、人々の健康のため、一種の慈善事業として寺院には大湯屋という浴堂が建てられます。

鎌倉時代、源頼朝は鎌倉山内の浴堂で1日千人、延べ1万人の百日施浴を行っています。このように鎌倉

時代は寺院が人々を入浴させて、仏の教えを説く施浴風呂、施浴湯の風習が全国的に広まっていきます。

風呂や湯は、やはり特別の娯楽だったり、休養だったりで、武士の日常で体を洗い清めるのは主に行水に

頼っていたそうです。

戦国武将の間では「風呂会釈」とか、「ふるまい湯」といって客人や家臣を風呂でもてなす習慣があった。

これは大釜で盛んに湯を沸かしその湯気をスノコの下に導いて、密封した部屋に熱い蒸気を満たすのです。

武将たちは持参した褌(ふんどし)や湯帷子(ゆかたびら)をまとい、体を蒸して、脂をとかし、垢をすり落と

した。まさに今のサウナですね。

この湯帷子が、後の浴衣になったそうです。

ume 20120525 001


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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
一昨日の正解: 2代目 服部半蔵正成
徳川家康に仕えた、伊賀同心の支配役。いわゆる「服部半蔵」として世間でよく知られるのは、2代目 服部半蔵正成です。
しかし、彼はあくまで伊賀同心は配下の一部門であり、自身は甲冑を着て足軽を率いた武士でした。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:戦国武将への大質問 歴史の謎研究会編>

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『唐辛子は冷え症の予防になったの?』

『唐辛子は冷え症の予防になったの?』

古来、日本の医療は仏教の影響が色濃く、仏教とともに伝わって来た薬の知識や呪いの類で病気の治療

に当たっていた。

これは室町・戦国時代になってもあまり変化はなく、病気の治療は漢方や加持祈祷が主流でした。

他にも民間伝承のようなやり方ですが、いくつかの治療例が「雑兵物語」に記されています。


・冷え、暑気あたりを避けるには、“夏も冬も朝一粒ずつ胡椒をかじればよい”

・手足の冷え性対策には、“唐辛子を潰して尻から胡椒をかじれば良い。”

・息切れには、“梅干を取出して見てみろ”


などと書いてあり、梅干は食べるのではなく、見るものだったのです。

また、敵地の井戸は汚物を流し込んだりしたものですが、川の水を飲んだほうが安全であり、それでも水

あたりの可能性があるから、その時は、“杏の実”を絹布に包んで鍋桶に汲んだ水に入れ、そのうえで水

を飲めば当たらないという。

曲直瀬道三(1507-1598年)
ma.曲直瀬道三

これらの治療法は、現在の医療知識から見ると全く根拠がなかったり、あるいはかえって悪化させるので

はないかと思われるものもあるが、だからと言って一概に否定も出来ないのでしょう。

この時代は、それまでの混沌とした状況の中に、新しい医学の知識がもたらされた時代でもあった。

1553年には、ポルトガルの宣教師であり外科医でもあったルイ・アルメイダが来日し、豊後の領主・大友

宗麟の庇護を受けて日本では初めての洋式病院を開いています。

漢方と加持祈祷しか知らない当時の人々にとって西洋の科学的な治療は正しく驚異だったでしょう。

当時の代表的な医学者に曲直瀬道三という人物がいますが、道三は李朱医学を修め京都に帰って医療

に専念し、「啓通院」という医学校を開いて医学の発展に努めています。

西洋的な医学が本格的に入って来るにはまだ待たなければなりませんが、この時代、少しずつではあり

ますが、医学は整備されつつありました。


ルイ・アルメイダの西洋医術については、大分の「まーりたんさん」が「こちら」で詳しく記事にされています。

sakura 20120518 001

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『戦国クイズ』

≪昨日の解答≫
昨日の正解: 上杉景勝
慶次郎が語るには「天下広しといえども、真に我が主と頼むは会津の景勝をおいて外にあるまい」と言って上杉景勝に仕官しています。

≪本日の問題≫


                              <参考文献:戦国武将への大質問(歴史の謎研究会編)>

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Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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