FC2ブログ

美濃のマムシ 「斎藤道三」 その23

『土岐頼芸没する』

1547年に、道三は再び土岐盛頼(頼武)を攻めた。

盛頼は自殺し、頼芸は越前に落ちたが、朝倉家が冷遇し始めたので、関東の上総の万喜に同族・土岐頼尚

に頼んで流落して行ったが、間もなく眼病を患い失明してしまった。

ずっと後年の天正年間(1573~1592年)になって、土岐氏の旧臣である稲葉一鉄がその流落をあわれん

で迎え、5百石を与え侍女5、6人をつけていたわり養ったので、気楽な老後となり82歳で没したという。

この土岐頼芸や駿河の今川氏真の生涯など、名家に生まれた不肖な戦国大名の典型的な例です。

頼芸は82歳、氏真は77歳まで生き、当時としては随分と長生きしたものですが、本来の性格が気楽にでき

ていて、苦しみが身にしみない人間であったからでしょうか。

ぎすぎすして生きるより、まったりと生きて行く方が長生きの秘訣なのでしょうね。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。



pig 20150324



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫ (3月22日の問題)
正解:家康のキリシタン国外追放令

高山右近は、1588年に加賀金沢城主の前田利家に招かれて、扶持を受けて暮らしていたが、1614年の徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、加賀を退去しマニラに渡っています。

≪今日の問題≫


                                        考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

美濃のマムシ 「斎藤道三」 その22

『帰蝶、信長に嫁ぐ』

和睦の条件として、川手城を修復して土岐盛頼(頼武)をここに入れ、揖斐郡大野町の北方に城を築いて

土岐頼芸を入れるということで、事はおさまった。

清洲城の帰蝶像
no.濃姫

これには異説があって、江濃記・織田軍紀・信長公記では、

道三に尾越の連合軍はさんざんに打ち破られ退却したという。また、頼芸を美濃に帰任させているが、そ

れは尾張の斯波氏と足利将軍との仲裁によったという。

この異説の方が真実なのかも知れません。信長公記(建勲神社所蔵)は太田牛一の著書で、その時代に

生きていた人物です。

信長公記・美濃国諸旧記とも、この時のことが動機となって、数か月後に、織田信秀は我が子・信長のた

めに平手政秀に命じて、道三の3女・帰蝶を嫁にもらう約束をしたとしています。

道三の実力をはっきり見た信秀が、我が子の将来のために、この梟雄(きょうゆう)を外援として用意した

のでしょう。

この時、信長12歳、帰蝶11歳。

結婚はこれから4年後のことです。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。



pig 20150319



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:稲葉山城
1554年に道三が隠居したため、斎藤義龍は美濃守護代斎藤氏の家督を継いで稲葉山城主となっています。

≪今日の問題≫




                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

美濃のマムシ 「斎藤道三」 その22

『家督を義龍に譲る』

道三は美濃の太守となったものの、ここにたどり着くまでの手段がすべて悪辣を極めているので、領内の武士

たちは心服せず、なにかあると離反の色を出します。

斎藤義龍(1527ー1561年)
sa.斎藤義龍

そこで道三は一計を案じて、側室・深芳野が最初に産んだ子・豊太丸がこの頃では16歳となり、新九郎義龍と

なっていたので、左京太夫兼美濃守の官位を受けさせ家督を譲り、これを太守とします。

義龍が土岐頼芸の子であることは前述したとおりで、人々も皆知っていることなのです。

「新九郎様は土岐の血統を受けていなさるお方である」

と、心を傾けるであろうと計算した結果なのです。

この計略は旨くいきます。

「義龍様は前の太守の御一子であること顕微(けんぜん)である。道三殿がこれをもって太守公と仰がれるうえ

は、あえてさかろうべきでない」

と、皆々が反抗の色を捨てて道三に帰服したというのです。

道三は名義上隠居になった訳ですが、実際には権力を握りしめて離しません。

一応領内は静まり、道三の統制は行き届いたが、騒ぎは国外から起こった。

はじめ道三が頼芸と計って越前に追った盛頼(頼武)と、尾張に追った頼芸が通謀して、越前の朝倉家の支援

と織田家の助勢を得て、1544年8月半ばに南北から進攻して来たのです。

越前勢は7千余人、尾張勢は5千余人という大軍です。

道三は驚きながらも直ちに出動し岐阜市の南の野で戦ったが、形勢はかんばしくない。

道三は敗けると決まった戦を続けるような男ではなく、直ちに和睦を申し込んだ。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。



pig 20150318



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:兄弟、縁者に身を寄せた
織田信秀と道三が和睦すると土岐頼芸は後盾を失い、再び道三に追放され、妹の嫁ぎ先である近江の六角氏、続いて実弟の治頼がいる常陸、次いで上総の土岐為頼を頼り、後に甲斐の武田氏に身を寄せています。

≪今日の問題≫


                                      <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

美濃のマムシ 「斎藤道三」 その21

『美濃の太守になる』

道三はしばらく機会を待っていたが、国中の侍が自分に対して反抗の念を起こすのは、土岐家が存在して

いるからだと思うようになった。

でました! 勝手な妄想。

斎藤道三(1494-1556年)
sa.斎藤道三3

土岐家があれば、それに対する郷愁も起こり、それに代わって権威を得た自分を憎む気も起こるのだとい

う考えなのです。

「いくら目立たぬように事を運ぼうとしても、最後は荒治療にならんわけには行かん。いっそのこと、思い切

ってやってこますか!」

前の騒ぎから満一年目の1542年5月2日、かねて手なずけておいた兵1万人余りを率いて、突如として土

岐頼芸の居城・大桑城に押し寄せ、無二無惨に攻めかけた。

城中は無人に近いし油断していたので、防戦につとめたがどうすることもできない。

急を聞きつけて、土岐の一族や譜代の恩を忘れない武士らが駆けつけて来たが、どうすることも出来ない。

城は落ち、頼芸は尾張に落ちて織田信秀に身を寄せた。

これで美濃国内には、斎藤道三の上に立つ者はいなくなり、名実ともに美濃の太守となったのです。

彼が油売・庄五郎として美濃に入って来たのは20余年の昔です。

一介の旅人から英雄豪傑が機会を得て大大名になり得たのは、これを前にしては北条早雲、これ以降は道

三だけです。

美濃のマムシ、道三は感慨無量であったことでしょう。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。



真田氏本城のpiglet (真田氏本城の登城記は「こちら」です。)
pig 20150317



『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:一乗谷城
朝倉氏の居城は、福井平野を一望できる標高473m一乗城山に築城された中世山城の一乗谷城です。この城は、一度も戦闘に使用されることなく、信長の侵攻で廃城となっています。

≪今日の問題≫


                                        <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

美濃のマムシ 「斎藤道三」 その20

『道三と号する』

斎藤山城守秀竜は、1541年10年6月に剃髪して道三と号しています。

入道の動機は次のとおりです。

秀竜(道三)は京都から美女を呼び寄せ土岐頼芸にあてがい、権力を一手に握りしめて美濃を治めていた

が、権勢に任せて次第に傲慢になってきていた。

道三が剃髪した常在寺
jo.常在寺

これに対し、いきどおりや不満を抱くようになった頼芸の嫡子や弟らが中心となり家臣を結束して、アンチ秀

竜の兵を起こしたのです。

これに怒った秀竜は、兵5千を繰り出し合戦となった。

1541年3月から日々合戦を重ねたが、勝敗はつきません。

すると仲裁と称して、尾州から織田信秀が乗り込んで来たかと思うと、土岐家の姻戚にあたる近江の佐々木

定頼、越前の朝倉孝景も駆けつけて来て仲裁に入ったのです。

これは秀竜が頼芸を動かして行ったことでしょう。

美濃侍の大部分が敵側にまわった以上、戦いを続けるのは損だと見切ったのです。

近隣の大名が3人も来て奔走してくれ仲裁は進み、双方が和睦することになった。

この時、秀竜はこれまでの非を詫び、和議に実意を見せるためとして、常在寺で日運上人の剃刀で入道して、

道三と名乗ったのです。

この時、道三48歳。



ランキングに参加しています
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

いつもありがとうございます。


真田郷のPiglet (カメラを見てポーズしているのですが、ありさんみたいなpigletです)

pig 20150316




『戦国クイズ』

≪前回の解答≫
正解:雷
立花道雪が大木の下で昼寝をしていたら、急な夕立で雷が落ちかかったので、枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせ、これより以降、道雪の左足は不具になったという。
この千鳥の太刀には雷に当たった印があり、この刀を千鳥を「雷切」と号したという。

≪今日の問題≫


                                       <参考文献:武将列伝(海音寺潮五郎薯)>

テーマ : 歴史雑学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



ランキングに参加しています

人気ブログランキングへ







20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













最新記事
カテゴリ
FC2カウンター
リンク
月別アーカイブ