「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その21

『秀次では勝てません』

秀吉は天正12年3月から尾州で徳川家康と対峙する。

そのとき、摂津から美濃大垣へと移った池田信輝が秀吉にこう進言する。

「徳川勢は過半が小牧山に集まったようです。隙をうかがって三河に侵入し、諸村諸郷を焼き払

うというのはいかがでしょう。徳川方は仰天し総崩れになるはずです」

池田信輝(1536-1584年)
ik.池田恒興

この進言にもとづいて、秀吉は三河に5陣、総勢3万5千余人を送ることし、総大将は当時、三

好姓を名乗っていた秀次とした。

池田信輝が進言した秘策は間諜からの急報で、家康の知るところとなった。

徳川勢は三河に進む秀吉勢をひそかに追尾し、4月9日の朝、秀次勢が人馬を休めて兵糧を遺っ

ているところを急襲。

完璧に叩きのめした。

総大将の秀次はその身ひとつで、命からがら逃げるのがやっとというありまさま。

それがきっかけで秀吉側は大敗を喫した。

秀吉が激怒したことはいうまでもなく、秀次の無能をなじり、叔父・甥の縁を切るとまでいって、

秀次を遠ざけた。

武将として無能だっただけでなく、秀次は万事に無能で自分が微妙な立場におかれているのだとい

うのを理解しようとせず、酒と女に逃げた。

秀次は叔父の秀吉に似て異様に女好きで、譲ってもらった聚楽第にお手付きの女だけでも25人を

囲っていたという。



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                   <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その20

『邪魔になってきた秀次』

前野長康は老骨に鞭打って朝鮮に出兵していたが、休戦の話が持ち上がり多くの武将とともに

長康も帰国した。

豊臣秀次(1568-1595年)
to.豊臣秀次

その長康に秀吉は言った。

「御政道、全きあるよう関白殿下を補佐してもらいたい」

秀次の後見人になってもらいたいと。

しかし、それは表向きであって、腹は

「秀次に関白を辞退させてもらいたい」

ということにある。

難しい役である。長康は隠居するつもりであったから、辞退した。

それを秀吉は無理やり押しつけた。

仕方がない。

長康は後見人という立場で秀次に諫言した。

「太閤殿下のお気持ちを察して関白の座を返上なされませ」

「もっともである」

と秀次はうなずくが。一日延ばしにする。

秀次は武将として無能であったともいう。



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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その19

『秀頼生まれる』

秀吉は、もう子ができることはあるまい。そう思って養子を迎えたら思いがけなく男子が生まれ、

跡継ぎをどうするかで揉めるという事例はこの時代も、以前も、以後も江戸時代まではかなりあ

ったという。

豊臣秀頼(1593-1615年)
to.豊臣秀頼


福島正則などは男子が生まれたので、なんと養子を餓死させるという非道なことをやっている。

秀吉も思いがけなく、そんなことになってしまった。

誰でも血を分けた我が子はかわいい。怪しげな浮浪の徒から身を起こし、粉骨砕身、その手に

握った「天下」という分捕りの成果・果実はできたら自分の子に譲りたい。

しかし、甥の秀次に関白の座を譲っている。

関白の座を譲るということは御政道、政権を譲るということでもある。

名護屋にいて、朝鮮や明との戦いの采配を揮っており、軍事ということで引き続き全権を握って

いたが、国内の統治は秀次に任せると天下に公表していた。

諸大名の殆どが朝鮮の役で渡海し、でかけなかった徳川家康にしても前田利家にしても、秀吉と

ともに名護屋の陣中にいたから、また秀次に関白の座を譲ってからの期間も2年弱と短かったか

ら、秀次が実質的に政治を行うということはなかったが、それでも形の上では、秀次が国内を統

治しているということになっていた。

なのに、せがれができので、もういい、関白の座から降りてくれ、と現況を引っ繰り返すわけに

はいかない。



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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その18

『小太郎、秀次に仕える』

秀吉が朝鮮遠征を進めているとき、前野長康は秀吉からこういわれた。

「小太郎を余に寄越さぬか」

小太郎は嫡男である。長康は首を傾げて聞いた。

「と仰せられますと?」

豊臣秀次(1568-1595年)
to.豊臣秀次

「鶴松を失くして大唐国征服の踏ん切りがついた。ついては国内を固めねばならず、そのため、

跡目を秀次に譲ることにした」

秀次は秀吉の姉・とも(日秀尼)と、前野長康、蜂須賀正勝とも縁戚になる三輪一路との間にで

きた子で、秀吉にとっては甥にあたる。

「秀次の身辺を、身内や譜代で固めさせようと考えてのことだ」

秀吉の跡目ということなら、秀次は次の天下人になる。次の天下人の側近にと所望されたのだ、

願ったりの話で、長康は二つ返事で応じ、小太郎は出雲守と名乗ることを許されて秀次に仕え

ることになった。

秀吉はその年の12月27日に、秀次に関白の座と豪奢な城・聚楽第を譲り、みずからは太閤と

称した。



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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その17

『朝鮮遠征』

朝鮮は日本が天下を統一しようがしまいが、朝鮮にとってはどうでもいいことである。

秀吉は対馬の宋氏の尻を叩いたので、朝鮮から祝賀の正使・副使がやってきた。

秀吉は朝鮮が征明を承諾したと思い込んでおり、ただ一度だけの引見ですませ、朝鮮国王へこん

な手紙を持たせた。

名護屋城大手門
na.名護屋城大手門

「山海が隔たっているのもものともせず、大明国に入国し我が国の風俗を唐土四百余州に移し、

政化を未来永劫にほどこそうと考えている。貴国は諸国に先駆けして服属してきたから、征服

されるなどと心配するにおよばない。ただ、余が大明国に入るときは士卒を率いて参陣するよう。

さすれば我が国と貴国の隣盟はいっそう固まるであろう」

なにを寝ぼけたことをいってやがる。

というのが手紙を読んだ朝鮮側の感想であったのでしょうが、秀吉は大真面目なのです。

そしてこの4月、前野小太郎と於長が祝言を挙げた月です。

秀吉は小早川隆景らに渡海のための造船を命じた。

続けて6月、宋義智を釜山に派遣し、明への道案内をせよと朝鮮国王に通告させた。

朝鮮は当然、これを無視です。

鶴松が8月に亡くなると、秀吉は高麗および大明国への出兵を公表し、渡海の前進基地となる

肥前名護屋に城を造営するようにと、加藤清正や小西行長ら九州の諸大名に命じた。

9月には、明年の3月を期して、大唐国へ出兵する、万端怠りなく支度に励めと諸将に命じた。



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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

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