戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その23
『貴族大名・今川義元の最後』
大雨が少しおさまりかけたとき、信長は
「かかれ!目指すは今川義元ひとりであるぞよ。他の首は捨てておけ」
と、叫び、2千の軍勢に突撃の命令を下し、みずから先頭にたって太子ヶ峰を駆け下り、ひと
つの黒い塊となり、まっしぐらに義元の旗本めがけて襲い掛かった。
桶狭間古戦場公園の信長と義元
吹きすさぶ風、夜かと間違うような闇のなかで、異様な気配を感じながらも、今川の旗本の諸
士は、それが信長の奇襲とは思いもよらなかった。
だが、既にそこかしこに槍をふるう織田方の兵士の姿を見えていた。
「これは、したり」
と、今川幕下の諸士は、とっさに義元を囲み円陣をつくって、虎口を脱出しようとしたが、た
だちに織田勢に発見された。
凄まじい突き合い、斬り合いとなった。
数度渡り合ううちに、今川方は次々と倒され、わずか数十人を残すだけとなり、円陣が崩れて
きた。
そこへ織田方の近習・服部小平太が長柄の朱槍を突き出し、義元の膝がしらを斬った。
しかし、義元は左文字の名刀を持ちなおそうとした瞬間、信長の近臣・毛利新介が義元の首
を胴から離した。
これが上洛を目指した、貴族大名・今川義元の最後のありさまだった。
まさに電撃作戦だった。
大将が討たれて残兵すべからずの例えのとおり、今川軍はわれ先に東方に向かって潰走した。
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いつもありがとうございます。
<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
大雨が少しおさまりかけたとき、信長は
「かかれ!目指すは今川義元ひとりであるぞよ。他の首は捨てておけ」
と、叫び、2千の軍勢に突撃の命令を下し、みずから先頭にたって太子ヶ峰を駆け下り、ひと
つの黒い塊となり、まっしぐらに義元の旗本めがけて襲い掛かった。
桶狭間古戦場公園の信長と義元
吹きすさぶ風、夜かと間違うような闇のなかで、異様な気配を感じながらも、今川の旗本の諸
士は、それが信長の奇襲とは思いもよらなかった。
だが、既にそこかしこに槍をふるう織田方の兵士の姿を見えていた。
「これは、したり」
と、今川幕下の諸士は、とっさに義元を囲み円陣をつくって、虎口を脱出しようとしたが、た
だちに織田勢に発見された。
凄まじい突き合い、斬り合いとなった。
数度渡り合ううちに、今川方は次々と倒され、わずか数十人を残すだけとなり、円陣が崩れて
きた。
そこへ織田方の近習・服部小平太が長柄の朱槍を突き出し、義元の膝がしらを斬った。
しかし、義元は左文字の名刀を持ちなおそうとした瞬間、信長の近臣・毛利新介が義元の首
を胴から離した。
これが上洛を目指した、貴族大名・今川義元の最後のありさまだった。
まさに電撃作戦だった。
大将が討たれて残兵すべからずの例えのとおり、今川軍はわれ先に東方に向かって潰走した。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その22
『情報網』
信長にしても、梁田広正の忍者情報がなければ、義元が方向転換したことを知るよしもなく、そ
のまま相原の方向へ進んで行ったなら、完全に肩透かしを食わされ、織田勢は結局全滅し、信長
の将来も存在しなかったでしょう。
桶狭間現地案内板(桶狭間訪問記は「こちら」です。)
また、忍者の情報を得ても、梁田広正の忠言に従わなかったなら、やはり壊滅したことでしょう。
奇襲作戦は、敵の不意を衝くのが目的ですが、敵の動きを密かに、しかも即刻に捉えるための情
報網を張り巡らす必要があります。
桶狭間奇襲作戦の成功は、信長の敵情キャッチの素早さが大きな起因であった。
今川義元は、刈屋・緒川の戦闘地帯を避け、田楽狭間を経て桶狭間に出ようとした。
そして、ちょうど昼時にあたったので、田楽狭間の窪地で兵馬を小休止させた。
ところが、義元の動静をキャッチした信長は、相原の中間地点で、馬を降り、旗さし物を棄て、
2千の将兵と一丸となり、田楽狭間を目指して進み、その背後にあたる太子ヶ峰にのぼった。
見ると義元の本陣がまっ下にある。物見の報告によれば、敵は信長の潜入を夢にも知らず、容易
に動く気配がない。
いや目前の大勝利に心も浮きたち、近在の神主らが持参した祝い酒に、舌づつみをうっていたの
です。
しかも、この時、天空が黒雲に覆われ、下界が霧の海のように暗くなったかと思うと、大粒の雨
が降り出した。
あわてたのは弁当を食べていた今川勢である。
大雨を避けて、われ先に軒下に、木陰へと散らばった。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
信長にしても、梁田広正の忍者情報がなければ、義元が方向転換したことを知るよしもなく、そ
のまま相原の方向へ進んで行ったなら、完全に肩透かしを食わされ、織田勢は結局全滅し、信長
の将来も存在しなかったでしょう。
桶狭間現地案内板(桶狭間訪問記は「こちら」です。)
また、忍者の情報を得ても、梁田広正の忠言に従わなかったなら、やはり壊滅したことでしょう。
奇襲作戦は、敵の不意を衝くのが目的ですが、敵の動きを密かに、しかも即刻に捉えるための情
報網を張り巡らす必要があります。
桶狭間奇襲作戦の成功は、信長の敵情キャッチの素早さが大きな起因であった。
今川義元は、刈屋・緒川の戦闘地帯を避け、田楽狭間を経て桶狭間に出ようとした。
そして、ちょうど昼時にあたったので、田楽狭間の窪地で兵馬を小休止させた。
ところが、義元の動静をキャッチした信長は、相原の中間地点で、馬を降り、旗さし物を棄て、
2千の将兵と一丸となり、田楽狭間を目指して進み、その背後にあたる太子ヶ峰にのぼった。
見ると義元の本陣がまっ下にある。物見の報告によれば、敵は信長の潜入を夢にも知らず、容易
に動く気配がない。
いや目前の大勝利に心も浮きたち、近在の神主らが持参した祝い酒に、舌づつみをうっていたの
です。
しかも、この時、天空が黒雲に覆われ、下界が霧の海のように暗くなったかと思うと、大粒の雨
が降り出した。
あわてたのは弁当を食べていた今川勢である。
大雨を避けて、われ先に軒下に、木陰へと散らばった。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その21
『義元の運のつき』
『桶狭間合戦記』によると、「桶狭間の山の中間、田楽狭間」と記されているから、田楽狭間
の戦いを、桶狭間の戦いといったらしい。
桶狭間の戦い進軍図
*YOMIURI ONLINより借用しています。
ここは周囲が丘陵に囲まれた広さ一町余りの盆地の地勢です。
緑の丘に囲まれ、休憩にはもってこいの地帯なのです。だから今川義元も沓掛を出て大高への
進軍の途中、昼時になったので、ここを休憩の場所として選んだのでしょう。
ですが、義元はなぜ、急に道を転じて桶狭間の方へ向かったのであろうか。
地図を見てもわかりますが、大高への道は桶狭間を通れば遠回りになるのです。
この時の今川方の陣形を見ると、丸根・鷲津の砦はすでに落ち、ただ境川付近の刈屋(谷)
・緒川に織田方の水野信元がいるに過ぎない。
これに対しても大高と鳴海に陣取った今川勢の一部隊があたっているから、陥落するのも時
間の問題でしよう。
従って、もはや義元の本隊が、その近くを通り、わざわざ戦いをしかける必要はないのです。
「俺は最後の清洲攻めに采配をふるえばよいのだ」と、義元は楽観していたのでしょうか。
義元は刈屋・緒川を避け、田楽狭間を経て、桶狭間に出ようとしたのでしょう。
しかし、義元も海道一の弓取りといわれた武将なのです。
あるいは織田方の襲撃を巧みに避けようとして、沓掛から大高の城へ直行すると見せかけ、
わざと道を変更し、桶狭間の間道へ迂回したのかもしれません。
その道をかえた場所が、地の利の悪い狭間だったところに、信長のつけ入る隙があり、義元
の運の尽きるところがあった。
信長は幸運にも、義元の作戦の裏をかく結果となったのです。
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2月16日にやってきました。
名前は『robin』です。 tiggerともどもよろしくお願いします。
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『桶狭間合戦記』によると、「桶狭間の山の中間、田楽狭間」と記されているから、田楽狭間
の戦いを、桶狭間の戦いといったらしい。
桶狭間の戦い進軍図
*YOMIURI ONLINより借用しています。
ここは周囲が丘陵に囲まれた広さ一町余りの盆地の地勢です。
緑の丘に囲まれ、休憩にはもってこいの地帯なのです。だから今川義元も沓掛を出て大高への
進軍の途中、昼時になったので、ここを休憩の場所として選んだのでしょう。
ですが、義元はなぜ、急に道を転じて桶狭間の方へ向かったのであろうか。
地図を見てもわかりますが、大高への道は桶狭間を通れば遠回りになるのです。
この時の今川方の陣形を見ると、丸根・鷲津の砦はすでに落ち、ただ境川付近の刈屋(谷)
・緒川に織田方の水野信元がいるに過ぎない。
これに対しても大高と鳴海に陣取った今川勢の一部隊があたっているから、陥落するのも時
間の問題でしよう。
従って、もはや義元の本隊が、その近くを通り、わざわざ戦いをしかける必要はないのです。
「俺は最後の清洲攻めに采配をふるえばよいのだ」と、義元は楽観していたのでしょうか。
義元は刈屋・緒川を避け、田楽狭間を経て、桶狭間に出ようとしたのでしょう。
しかし、義元も海道一の弓取りといわれた武将なのです。
あるいは織田方の襲撃を巧みに避けようとして、沓掛から大高の城へ直行すると見せかけ、
わざと道を変更し、桶狭間の間道へ迂回したのかもしれません。
その道をかえた場所が、地の利の悪い狭間だったところに、信長のつけ入る隙があり、義元
の運の尽きるところがあった。
信長は幸運にも、義元の作戦の裏をかく結果となったのです。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その20
『田楽狭間』
織田勢は相原付近を前進すると、そのとき新たな情報を得た。
梁田広正が沓掛方面に遣わしていた忍びの者の報告によれば、今川義元の旗本は、なぜか桶狭
間の方へ向きをかえ、すこし南の田楽狭間で小休止しているとのことである。
今川義元(戦国無双)
信長は一瞬、歓喜のまなこを輝かした。
これまでは運を天にまかせて、遮二無二に敵中に突っ込むもうと考えていたが、この知らせを
得て、何か勝算らしいものが胸中に浮かび上がるのをおぼえた。
田楽狭間といえば、その名のごとく狭い窪地である。
5千に余る今川勢は、どうしても縦に伸びざるを得ない。そこで縦に伸びたところを、旗本めが
けて斬りこめば、まちがいなく義元の鉄漿(おはぐろ)首を討ち取ることができる。
信長の脳裡には、そんな計算が電光のようにひらめいた。
それに「今川勢は、いまや鷲津・丸根の戦勝に酔い、有頂天になっておりまする。これを衝けば、
必ずや、義元を討ち取ることが出来ましょうぞ」という。
梁田政綱の言葉ぞえも、織田勢の士気を高揚させた。
織田家の興亡は、この一戦にありと知って2千の主従が一丸となり、馬の首をたて直し、田楽狭
間めざして疾走した。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
織田勢は相原付近を前進すると、そのとき新たな情報を得た。
梁田広正が沓掛方面に遣わしていた忍びの者の報告によれば、今川義元の旗本は、なぜか桶狭
間の方へ向きをかえ、すこし南の田楽狭間で小休止しているとのことである。
今川義元(戦国無双)
信長は一瞬、歓喜のまなこを輝かした。
これまでは運を天にまかせて、遮二無二に敵中に突っ込むもうと考えていたが、この知らせを
得て、何か勝算らしいものが胸中に浮かび上がるのをおぼえた。
田楽狭間といえば、その名のごとく狭い窪地である。
5千に余る今川勢は、どうしても縦に伸びざるを得ない。そこで縦に伸びたところを、旗本めが
けて斬りこめば、まちがいなく義元の鉄漿(おはぐろ)首を討ち取ることができる。
信長の脳裡には、そんな計算が電光のようにひらめいた。
それに「今川勢は、いまや鷲津・丸根の戦勝に酔い、有頂天になっておりまする。これを衝けば、
必ずや、義元を討ち取ることが出来ましょうぞ」という。
梁田政綱の言葉ぞえも、織田勢の士気を高揚させた。
織田家の興亡は、この一戦にありと知って2千の主従が一丸となり、馬の首をたて直し、田楽狭
間めざして疾走した。
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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その19
『鷲津・丸根砦の陥落』
信長の軍勢が熱田神宮を南に進むと、はるかに、鷲津・丸根の方向に黒煙が立ち上るのが見え
た。
不吉な予感が信長の脳裡をかすめた。
鷲津砦跡
海沿いに行けば近道だが、ちょうど満潮の時期だったので、井戸田の方へ向かった。
それより少し前、信長は敵の目をまぎらすために、かれの攻撃目標とは別な鳴海方面に、佐々正
次などの3百の決死隊を出していた。
その中には、尾張荒子の土豪・前田犬千代(利家)もいた。
犬千代は、その頃、信長の勘気を受けて浪々の身の上であったが、桶狭間合戦のことを聞きつけ
はせ参じていたのです。
山崎を過ぎるころ、案のごとく丸根砦の佐久間盛重が悲壮な戦死をとげたことが伝えられた。
『佐久間軍記』によれば、守将・盛重は松平元康が率いる三河勢を相手に踏みとどまり、返り血
を浴びながら、夜叉のように奮闘したが、利を得ず、ついに砦に火をかけ、討死をとげたという。
この知らせを受けた織田方の将兵は、重盛らの死を悼み、信長も数珠を取りあげ、鎧の上から斜
めに掛け、怒りに満ちた顔をふり向け、
「みなの者、今日は、この信長に命を預けよ」
と、高らかに呼びまわった。
将兵らの意気は大いにあがり、善照寺において勢ぞろいしたが、ちょうど、このとき信長は義元
が沓掛を出て、大高方面に向かって移動を開始したという情報をキャッチした。
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<参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>
信長の軍勢が熱田神宮を南に進むと、はるかに、鷲津・丸根の方向に黒煙が立ち上るのが見え
た。
不吉な予感が信長の脳裡をかすめた。
鷲津砦跡
海沿いに行けば近道だが、ちょうど満潮の時期だったので、井戸田の方へ向かった。
それより少し前、信長は敵の目をまぎらすために、かれの攻撃目標とは別な鳴海方面に、佐々正
次などの3百の決死隊を出していた。
その中には、尾張荒子の土豪・前田犬千代(利家)もいた。
犬千代は、その頃、信長の勘気を受けて浪々の身の上であったが、桶狭間合戦のことを聞きつけ
はせ参じていたのです。
山崎を過ぎるころ、案のごとく丸根砦の佐久間盛重が悲壮な戦死をとげたことが伝えられた。
『佐久間軍記』によれば、守将・盛重は松平元康が率いる三河勢を相手に踏みとどまり、返り血
を浴びながら、夜叉のように奮闘したが、利を得ず、ついに砦に火をかけ、討死をとげたという。
この知らせを受けた織田方の将兵は、重盛らの死を悼み、信長も数珠を取りあげ、鎧の上から斜
めに掛け、怒りに満ちた顔をふり向け、
「みなの者、今日は、この信長に命を預けよ」
と、高らかに呼びまわった。
将兵らの意気は大いにあがり、善照寺において勢ぞろいしたが、ちょうど、このとき信長は義元
が沓掛を出て、大高方面に向かって移動を開始したという情報をキャッチした。
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