「鳥取城の戦い」 その8

『山中鹿介 七難八苦の生涯終わる』

秀吉の道先案内は、姫路城将であった小寺官兵衛であった。

秀吉は播磨進撃に先立って、官兵衛に手紙を送り

「お前のことは、わが弟の秀長と同じように心安く思っている。また、お前と自分との間柄は人後

に落ちない」

と言葉巧みに口説いている。

山中鹿介(1545-1578年)
ya.山中鹿介 002

秀吉一流のやり方で、人の心をつかむ名将であったのです。

破竹の羽柴軍は、宇喜多直家方の上月城を陥し、尼子勝久・山中鹿介らを籠らせる。

信長はこれまでの仮面をなげすて、尼子支援を表面に押し出した。

ところが、天正6年2月播州三木城主の別所長治が、毛利と連合して、信長に反旗をかかげ播磨

進出の秀吉を安土の信長と断ち切ってしまった。

そこで秀吉は、三木城を攻めなければならなくなる。

秀吉も多忙です。

羽柴軍が動けば、毛利軍も動く。

この年の7月、ついに上月城は攻められ、尼子氏は滅亡し、山中鹿介も七難八苦の生涯が終わる。



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「鳥取城の戦い」 その7

『織田の反撃開始』

上杉謙信は宿敵・加賀の一向一揆と和睦し、7月、能登・畠山氏の七尾城(石川県七尾市)を

囲んだ。

信長は柴田勝家・羽柴秀吉らに出兵を命じ、上杉軍を支えようとする。

しかし、七尾城が陥落したので、加賀まで進んだ救援軍は、そのまま兵を返してしまった。

松永久秀(1508-1577年)
ma.松永久秀03

この間隙をぬって、松永弾正久秀が、またまた信長にそむき、大和信貴山城に立て籠もった。

毛利の謀略の手が伸びたのか。

しかし久秀は、10月10日、

「信長の威光をもっても、弾正の首と平蜘蛛の茶釜は見られまい」

といって、平蜘蛛をかかえて木端微塵になって爆死した。

謙信もまた、小田原の北条が関東で動いたので、本国へ帰り、反信長陣営の一角が崩れた。

かくて、10月23日、信長の先陣・羽柴秀吉は、中国の最高指揮官となって播磨に入り、姫路

城に根拠をすえた。

いよいよ、織田の西下・反撃が開始されたのです。



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「鳥取城の戦い」 その6

『播磨経略は毛利にまかす』

毛利の3道併進策に対して、信長はどのような戦略を練っていたのだろうか。

まず、羽柴秀吉は播磨に進出して、毛利の与党である備前(岡山県)の宇喜多直家を討つ。

と同時に、明智光秀・細川藤孝は丹波に出動して、毛利方の八上(兵庫県)城主・波多野

秀治を征伐する。

宇喜多直家(1529-1582年)
uk.宇喜多直家

また、豊後(大分県)の大友宗麟と連絡をとって、毛利の背後をかく乱させ、毛利方の水軍

の動きを封ずる。

信長もまた、三方面から毛利・両川軍に対して、その東上を食い止めようとした。

毛利・小早川軍が京都を目指して、東上を開始したのは、天正5年3月のことである。

4月になると足利義昭は、上杉謙信の出馬を求め、

また、「武田・北条・上杉らの連合ができて、京都に進撃するから、協力せよ」

と、遠く薩摩の島津義久に命令を下す。

これは大友への牽制策である。

5月、小早川隆景は兵を阿賀(姫路市)に出して、姫路をうかがった。

ついで6月、毛利輝元は備後三原(岡山県三原市)に進み、備中笠岡(岡山県笠岡市)

在陣の隆景と相談しながら、東上軍の総指揮をとった。

この頃、信長は安土にあって、播磨は毛利の経略にまかせていた。

これは春日山の上杉謙信の西上を見越していたからです。



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東京湾に沈む夕日

『東京湾に沈む夏の夕日』

晴天で雲ひとつない快晴の天気でしたので、東京湾に沈む夕日を撮りに行ってきました。

前回は、メモリカードを挿入せずに撮影していたので、今回はリベンジなのです。

場所は、ホームグランドにしている「袖ケ浦海浜公園」

現場に着くと、水平線に近い部分は雲が立ち込めています。

20180702 001

ここに来る時の相棒は、いつもsmartクン。

老隊にムチ打って、元気よく走ってくれています。

20180702 002

この時期は、富士山より北側の川崎上空に沈んでいました。(冬の東京湾に沈む夕日は「こちら」です。)

20180702 004

冬の時期は、富士山の南側に沈んでいたので、時期を併せれば、確実にダイヤモンド富士が

見られる場所なのでしょう。

20180702 003

日が沈むと、富士山がうっすらと姿を現してくれましたが、やはり冬の富士山の方が鮮明な

富士山です。

20180702 005

次回は、ダイヤモンド富士が見れる時に来てみたい思います。


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robinのマイカー

『お気に入りのマイカー』

暑くなり、抱っこしての外出ができなくなりましたので、robinのマイカーが届きました。

さっそく、木更津のアウトレットに出かけてみました。

ハコ乗りでもするような、ご機嫌のrobinです。

robin 20180701 001

pigletが使用していた、うさぎ用の車はあったのですが、開口部分が少ないため、嫌がり

飛び出して危ないため、犬用のマイカーが届きました。

この車は、robinが譲りうけてました^^

robin 20180701 004

車についているリードは、短くて自由が利かないため、散歩用のリードを使用しています。

robin 20180701 002

ショップの1/3くらいは、抱っこするかカートに乗っていれば入店ができます。

robin 20180701 003

このマイカーで外出の幅が広がるかもしれません。

tiggerと違って、お留守番が苦手なrobinですから・・・。



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「鳥取城の戦い」 その5

『毛利、信長に挑む』

毛利が熟慮しているうちに、火の手は本願寺にあがった。

天正4年4月、顕如はまたも信長と戦端を開き、毛利に援助を求めてきた。

そこで、毛利は苦悩に苦悩を重ねたすえ、5月7日、ついに立ち上がった。

顕如(1543-1592年)
ke.顕如

厳島合戦以来、鍛えにきたえた毛利の水軍7、800艘は、大坂湾頭の木津川口に進出し、織田

の大船10余艘、小舟200余艘を全滅させ、織田の包囲にある本願寺に兵糧を入れた。

7月13日から14日の早朝にかけての出来事である。

織田・毛利の緒戦は、毛利に凱歌があがった。

足利義昭は、わがこと成れり、とほくそ笑んだことでしょう。

毛利もまた気をよくして。明春を期して、三道から京都へ進撃することを決定した。

その1は、山陽道を京都へ向かう正道で、輝元・隆景が足利義昭を奉じて前進する。

その2は、山陰道から京都の背後をつく奇道で、元春が攻める。

その3は、瀬戸内海を通って摂津(兵庫県)か和泉(大阪府)に上陸する海道で、毛利水軍が当

たる。



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「鳥取城の戦い」 その4

『天下を望んではならない』

信長が安土に移った頃、吉川元春は信長・秀吉に新年の祝賀を述べ、信長はこれに答え、秀吉

もまた返事を書いた。

「山鹿(山中鹿介)は援助しないということである。したがって、因幡の国はご存分にまかせ

て、攻められたがよろしかろう」

ですが、事実は違います。

山中鹿介(1545-1578年)
ya.山中鹿介 002

鹿介らは信長の援助のもとに、尼子勝久を擁して但馬から因幡に入り、尼子家再興戦を演じて

いたのです。

織田と毛利との、さりげない虚々実々の外交戦というべきなのでしょう。

また、将軍職カムバックに異常な熱意を示した流浪の足利義昭は、天正4年になって、毛利分

国の表玄関、備後(広島県)の鞆(とも・福山市)に姿を現した。

かつて、毛利の使僧・安国寺恵瓊が

「さてこの上にて、自然西国などへ御下向候ては、御一大事たるべく候」

と、いいきって、義昭に毛利領国にやって来られては困ると、拒否したことなどおかまいなか

った。

こうなると、織田・毛利間の火薬庫に火がつけられたのも同然です。

毛利には元就の

「子孫たるもの、天下を望んではならない」

という遺訓があったので、天下の政権をうかがう野心はなかった。

しかし、いま足利義昭の求めに応じると、いやでも天下を争う立場におかれ、信長との激突は

必至だ。

これは毛利の運命にかかわる重大問題であったのです。



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robin 20180629




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平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

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*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
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