戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その16

『信長は若干の自信があった?』

今川は駿・遠・三にまたがる大国です。

信長の方から先制攻撃をしかけるわけにもいかない。

そんなことをすれば、かえって敵中に深入りする危険にさらされる。

と、いって今川を放置しておくわけにもいかない。

いつかは雌雄を決せなければならぬ相手です。

その機会が、ついにやってきたのです。もちろん敵は我に数倍する大軍なのです。

織田信長
od.織田信長像岐阜駅前

しかし戦いには、時の運ということもある。運よく勝てば、上洛のチャンスをつかむことさえで

きるのです。

「死のうは一定、しのび草には、何をしょうぞ。一定かたりこすのよ」

若き信長が、つねづね愛舞する小唄の一節です。

「死を賭して戦うほかない」

と、彼は密かに決意したのでしょう。

冷静に考えると、信長にも若干の自身はあった。なぜなら、戦いの場は草木の数まで知り尽くし

た尾張の土地なのです。

農民らとも長年、密接な関係があるから、敵の動きも、居ながらにして伝えられ、通報にも信頼

がおけた。



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                      <参考文献:日本の合戦(新人物往来社)>

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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その15

『籠城策を聞かぬ信長』

血気にはやった青年武将が、歴戦の古老の忠言を容れずに失敗するのは、よくあることですが

信長も断固としてきかなかった。

譜代の老臣をはじめ、多くの武将らは、なおも

「わずかな兵力で敵の大軍に討ち入れば、斬り死は必定!」

と、出撃の無謀さを非難し、清洲籠城を主張した。

清洲城(模擬天守)
ki.清洲城 001

しかし、信長はいっこうに聞き入れず、夜が更けると、軍議もまだ定まらぬというのに退席を

命じた。

このような信長の無謀な態度に、家中の者どもは

「運の末には知恵の鏡も曇る、とは、このことをいうのだろう」

といって、嘆いたと『信長公記』に記している。

実際、この今川義元の尾張侵入という事態は、27歳の織田家の総大将・信長にとって、生死

を賭した大事件には違いなかった。

今川との戦いは、避けられぬ運命といえば、それまでです。

父・信秀の生涯も、織田家の基盤を確立こそしたが、元来は守護代の家老の出身だから、同僚

や一族の反対も避けがたいし、ことに今川との対立抗争が激しく、42年の生涯を戦闘のうちに

過ごしたといってもよいのです。

信長人身も分国尾張の統一に際して、今川のために、いくたびか窮地に追い込まれたのす。

かりに今川の妨害を排除して、尾張の統一に成功したとしても、さらに上洛ための一歩を進め、

美濃に攻め込めば、このときばかり背後から義元の攻撃を受けること必定である。



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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その14

『作戦会議』

今川義元の本隊がすでに沓掛まで侵入し、明日には丸根・鷲津の砦を攻撃するらしいという情

報が、信長の居城清洲に伝えられたのは、5月18日の夜のことだった。

沓掛は、もう織田家の領内です。

丸根砦跡
ma.丸根砦跡

丸根・鷲津が陥落すれば、この清洲の町まで、なんの支えもない。

たとえ、佐久間盛重、織田信平らの精鋭が、この両砦を死守するとはいえ、5百に足りぬ小勢

である。

今川の大軍に攻め立てられると、ひとたまりもない。

しかし今度の作戦で、信長自身が動かすことができる兵力は、分国の総動員を行ったとしても、

今川勢の1/4にもならなかった。

清洲城の大広間では、次々ともたらされる味方の敗情に、不安な面持ちで、いつ終わるともな

く作戦会議が続行された。

「4万の敵に対して、わずか3千にも足りぬ小勢では、到底、味方の勝ち目は薄うござる。こ

の窮地を切り抜けるには、籠城するほかはありますまい」

先代以来の老臣・林通勝などは、このように主張し続けた。

しかし、信長は

「昔から籠城して運の開けたためしはない。明日は、未明に鳴海表に討って出て、義元の喉笛

に食いつくか、討死するかの、ひとつより道はない」

と、いいきった。



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robin 001




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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その13

『義元の進軍』

百姓が田植えに忙しくなる頃、駿府の城下では軍馬の往来が俄かに激しくなった。

西上の準備を完了した今川義元が、いよいよ制覇の旗を京都に打ち立てんとして、ついに全軍

総出陣の命令をくだしたからです。

永禄3年(1560年)5月のことであった。

今川義元
im.今川義元 001

義元みずからは、嫡男・氏真を留守に残し、馬上の人となっていた。

軍勢およそ2万5千。

敵にはったりを利かすために4万だったともいう。

諸記録はまちまちで、正確な兵数はわかりませんが、普通、1万石に対して250人の兵を集

めることができたともいわれるので、駿・遠・三河の3ヵ国、100万石におよぶ今川領から

は、やはり2万5千の兵士を招集できたと思われます。

これに対して織田方は、尾張上4郡および下2郡を総動員しても、4千に足りず、まったく比

べものにならない小勢だった。

義元より2日前に駿府を出発した今川の先鋒隊、東海道を西進し、5月15日には三河国池鯉

鮒(ちりふ)に、17日には尾張国鳴海方面に侵入し、織田領の村々に火を放った。

総大将・義元は16日、三河の岡崎城にはいると、織田方の万が一の攻撃に備えて、堀越義久

ら4千人を池鯉鮒および今岡に配置し、岡崎の守将には庵原元景に千人の兵を預け、警備を厳

重にいいわたした。

翌17日には、早くも今川の本隊は、尾張と三河の国境付近まで進出していた。

5月18日、義元は鵜殿長照に大高城を、岡部元信の7百余りを与えて鳴海城を守らせると同

時に、松平元康(家康)には2千5百の兵を与えて、丸根の砦の攻撃を、朝比奈泰能ら2千に

は鷲津の砦の攻撃を命じ、三浦備後守以下3千を援軍にあてると、かれ自身は境川を渡り、沓

掛城に入った。

信長の居城・清洲も、もはや近い。

怒涛のように領内になだれこむ今川の大軍を前にして、信長の胸中にはいかなる画策があった

のか。



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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その12

『貧乏クジを引かされる元康』

実際、元康が率いる松平軍には、いつも貧乏クジがまわってきていた。

困難な分の悪い役は、必ずやらされたのです。

それもただ働き同然であった。

かつて、元康が17歳の時、三河の寺部城主・鈴木重教をはじめ、織田方に内通する諸豪族をこ

とごとく平らげた際にも、その褒賞は刀一腰と、松平の旧領のうちわずか300貫文の地を還付

されたに過ぎなかった。

大高城
oo.大高城 002

だから、この兵糧入れも時も、酒井忠次・石川数正など松平譜代の重臣たちは

「大高は、織田勢に囲まれた城である。それを、わが軍だけで兵糧入れなどとは、到底かなわぬ

こと。駿府より援軍を頼まれては」

と、諫めたが、元康は頑として聞き入れなかった。

110頭の馬に450俵を積んで駿府を出た。

元康の率いる輸送隊は、大高城の近くまでしのび寄ったが、織田方の兵士の姿があちこちに見え

隠れして容易に近づけそうもない。

そこで一計を案じた元康は、軍勢を2手に分け酒井・石川らの諸隊に命じ、丸根・鷲津の目をご

まかし、敵地深く、寺部城に向かわせ、その城下に火を放ち城攻めの態勢を示した。

それで、鷲津・丸根の城兵は寺部の急を救おうとして、城を出した隙に、他の一隊で兵糧を積ん

だ小荷駄をまんまと大高城に導き入れてしまったのです。

永禄2年(1559年)5月18日のことであった。

松平元康(家康)は大高城へ兵糧入れの大役を難なく果たすことができたが、元康の率いる松平

軍の他に、この難事にあたることが出来なかった今川軍には、やはり桶狭間で敗戦する運命が待

ち受けていたのかもしれません。

100万石の富と高貴な家柄に上に大きなあぐらをかき、身についた貴族的な習慣を振り切るこ

とができなかったところに、大国今川の弱みがあったのでしょう。

それにこの時、すでに今川家の柱石と言われた太源雪斎も、この世にいなかった。

これも今川にとって大きな痛手であった。

だが、義元の上洛への意欲は、いよいよ強く、尾張の国内には刻一刻と、ただならぬ気配が迫り

つつあった。


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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その11

『松平元康』

義元は織田領の侵攻を開始した。

今川軍の先鋒には、いつも白地に群青の三葉葵の紋を染めぬいた三河の松平軍の旗がみえた。

大高城
oo.大高城

かつての竹千代は、今や17、8の凛々しい若大将に生長し、今川の一族・関口義広の妻を娶

り、その名も今川義元の一字と祖父・清康の武勇にちなみ、松平元康と改め、織田方の諸城を

次々と攻略していた。

後年、徳川家康生涯の軍功と称えられた尾張の大高城の兵糧入れも、この時であった。

大高城というのは、義元の妹婿・鵜殿長照が守り、今川の属城の中で、最も敵中に深入りした

城でした。

城の左右を織田方の丸根・鷲津の2砦に挟まれているため、長照は兵糧の欠乏に苦しみ、危急

を義元のもとに知らせてきていた。

しかし、今川軍がこの城に兵糧を入れようとすれば、丸根・鷲津の両砦を突破するより他はな

かった。

しかし、なかなか困難なことであった。

今川方にはこの難役にあたろうとする者はいない。

そこで、義元は、これを弱冠の松平元康に命じたのです。



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戦国時代の合戦「桶狭間の戦い」 その10

『信長を甘く見ていた義元』

今川義元が尾張に侵入し始めた頃、織田氏は信康の死後、非凡の成年武将・上総介信長が後を

継ぎ、不平分子や同族の離反を巧みに押さえ、数年の間に尾張の大半を統一し、今川なにもの

ぞ、とばかりに牙を研いでいた。

清洲城の信長(清洲城登城記は「こちら」です。)
od.織田信長 清洲城

しかし今川義元は、信長など全く眼中になかった。

小豆坂で手強い反撃を見せた信秀は、すでにこの世にいない。

それに同族の連合体のような織田家のことだから、信秀がいなければ統率もなるまいと楽観し

ていたらしい。

それに義元の巧みなかく乱戦略が効を奏し、天文21年4月には、20年来織田信秀に属して

いた鳴海の城主・山口左馬助、同・九郎二郎父子が、今川方に内通したし、また信長が弟・信

行や異母兄の織田信広・岩倉の織田信安らと仲違いし、四苦八苦したことも義元は知っていた。

だが義元は、その信長が美濃の斎藤道三も舌を巻いたほどの、三間半の長柄の槍と、当時まれ

な種子島の長筒をみごとに使いこなす新感覚を備えた若獅子であったことまでは見抜けていなか

ったらしい。



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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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