「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その5

『藤吉郎の家臣たち』

藤吉郎の家臣団となった川並衆の面々の出立、装束がすさまじい。

どこかで拾ったのを身につけているのでしょう。

兜をいただくも胴がない。

胴はあれども袖がない。

竿頭に藤吉郎の旗印である瓢箪を2個、これを見よがしに掲げる異風もいまいましい。

差し出がましいやつよ。

小賢しい男よ。

木下藤吉郎(豊臣秀吉)
to.豊臣秀吉 001

2千余もの家来というが寄せ集めの烏合の衆。

いざ合戦となれば、真っ先に尻尾をまいて逃げ出すに違いない。

藤吉郎や木下勢のこととなると、柴田をはじめみんながこう口汚く罵り、陰口を叩いたたが、小

六と小右衛門が補佐する木下隊の働きは目覚ましく、着々と力をつけていって、信長が明智光秀

に殺されるころには、信長の軍団の中では頭が、ひとつも2つも抜きんでる存在になっていた。

秀吉の軍団だけで毛利と対峙できるまでになっていたのです。

いや、だから、信長が不慮の災難に倒れた時、秀吉はなんなく信長の後継者というポストの勝ち

抜き合戦を勝ち抜くことができたのです。

これらは元をただすと墨俣一夜城築城のとき。小六と小右衛門が配下の川並衆を引き連れて秀吉

のもとに馳せ参じ、秀吉を一気に2千余人の兵を持つ武将にのしあげたからで、2人は豊家創業

の最大の功臣だった。2人の存在なくして後の秀吉はなかったのです。

2人がいなければ、なにしろ家来を持たない、十分な戦働きができない。

異能の才であるから相応には成り上がったでしょうが、柴田、丹羽、佐久間、滝川、のちに加わっ

て家来・明智光秀らと肩を並べるまでには、至ってないのでしょう。



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                <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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『女城主・井伊直虎』 その14

『今川氏真と家老・小野との闘争の行方』

今川氏真が瀬戸方久に安堵状を与えて2ヵ月足らずの11月9日、直虎はやっと徳政令を布告

した。

直虎 006

その内容を要約すると

永禄9年に氏真殿が出した徳政令の判形は銭主が難渋するとことで、いまもって出ていない。

だが本百姓の訴訟した件は先の判形どおりで、前々からの筋道によって名職などは受け取っ

てよい。

よって銭主方はたとえ負担が重いとしても、この件で訴訟をしてはならない。


というものであった。

こうした文書を、直虎が今川氏からの圧力に抗しきれず、ついに氏真の重臣・関口氏経と連名

で出さねばならなかったことは、さぞ無念であったでしょう。

直虎は負け、小野但馬守が勝ったのです。

しかし、この直虎の屈服は単なる負けに留まらず、今川氏の領内介入を阻んできた井伊家から、

今川氏がその統治権を奪うことを意味した。

今川氏真は地頭であった直虎を罷免し、井伊谷を今川氏の直轄にし、小野但馬守を任命し、井伊

谷をわがものにしたのです。

この徳政令をめぐる2年間の直虎と氏真・小野但馬守の抗争は、蜂前神社文書と瀬戸文書か

ら明らかになった事実なのです。

そしてこの文書に書かれていること以外、ほとんどで何も伝わっていません。

その伝わっていない空白の部分も、直虎は女城主として、政務をこなしていた筈です。

さらに、この徳政令の背後で、流血をみるような但馬守方との暗躍があったと考えるのが普通

です。

直虎は刀を握りしめ、相手を討ち果たそうとしたことも一度や二度ではなかったのでしょう。

そして今川への憎しみが消えない一族一門も但馬守を嫌い、武力衝突があったことも十分に

考えられます。

しかし、こうした記録は何ひとつ今日に伝わってはいません。



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pig 20170415



                       <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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「ねこうさぎブランド」 うさぎ用ハーネス

『pigletモデルのハーネス』

”和テイスト” の 雑貨店 の「ねこやすみ」さんは、着物リメイク、アクセサリー、袋ものなどの

手作り作家さんです。

今回、無理を言って「うさぎ用ハーネス」を作成して戴きました。

モデルとなったのは、piglet

pig 001

pigjetはネザーランドドアーフで、1.6kgです。

ふつうのネザーランドドアーフや小さめのミニうさぎにはピッタリサイズだと思います。

それで、完成したのが、これ

ねこうさぎ1

ねこうさぎ2

これは未だ試作品とのことですが、将来的には自分で生地の柄を選び、セミオーダー対応の予定も

あるとか・・・。   いや無理にお願いしてしまったようです。

ということは、自分が愛着した服をリメイクして最愛のうさぎに着せることも可能なのかも知れま

せんね。


「ねこやすみ」さんは和テイストの作家さんですから、ちょっと見るだけも楽しいアイテムがいっ

ぱいです。

このハーネスの詳しい記事は「こちら」です。

また、手作りの和風テイストが見れるのは「こちら」です。



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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その4

『藤吉郎は武将に』

藤吉郎は、百人組足軽頭でしかないが、異能の才のある人傑だ。

かつて藤吉郎は蜂須賀小六の家で居候として飯を食っていたこともあり、異能の才があることを

小六は当時から認めていた。

蜂須賀小六(1526-1586年)
ha.蜂須賀小六

この際、藤吉郎を大将に担ぎ上げ、われらは陪臣となって信長に仕えよう。

そうすれば信長とぶつかることはない。信長との嫌なことはすべて藤吉郎が処理してくれる。

小六と小右衛門はそう考え、墨俣城築城ができたあかつきには、自分たち2千人の川並衆は藤吉

郎の家来になる。

そんな心積もりで築城に協力したという。

墨俣城築城は藤吉郎の構想どおりに運んだ。

さすが一日では出来上がっていませんが、敵の襲撃を撃退しながら、3日でほぼ築城したという。

4日目に信長がやって来て小六と小右衛門に感謝した。

その時、小六は

「われら両人、このまま藤吉郎の下で働かせていただきとうございます。よろしゅうございましょ

うか」

信長はあっさりと

「好きにするがよい」

昨日まで百人組足軽頭に過ぎなかった一僕の侍、木下藤吉郎は墨俣に一夜城を築いたどさくさに、

2千余の家来を抱える武将になってしまったのです。

柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、滝川一益などの有力武将と肩を並べるにいたったのです。

このことは柴田勝家らにとっては苦々しい限りであった。



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pig 20170411



               <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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「夫への愛を貫きとおしたガラシャの娘」 その3

『墨俣一夜城』

信長から墨俣城築城を命じられて、藤吉郎は構想を立てた。

木曽川には松倉という大きな島が浮かんでおり、河原は松原になっている。

その松原を目隠しにして、松倉で墨俣城築城に必要な木材を寸法どおりに切り刻んでおく。

木材は木曽川の上流で伐採し、松倉に流す。

築城には麻縄、藤つる、手斧、鋤、鍬、もっこいなど建築材料も必要である。

墨俣城模擬天守
su.墨俣城 003

そのほか、邪魔をしかけて来るに違いないから、米、味噌、塩など食料、炊飯、料理する鍋、お椀

や寝るための布団、等々いろいろ欠かせない。

それらをあらかじめ用意しておいて一夜で墨俣に運ぶ。

そして城を築きながら敵の襲撃を防ぐ。これらには何千人という人手が必要である。

尾張の北から木曽川沿いにかけて、川並衆とも河内衆ともいわれていた地侍が約2000人ばかり

いて、蜂須賀小六はその魁首、小右衛門は副首という立場にあった。

信長から墨俣城築城を命ぜられ、築城の構想を立てた藤吉郎は小六と小右衛門をたよった。

小六と小右衛門もいい歳になっていて、いつまでも無頼風来の徒でもあるまいと行く末を案じるよ

うになっていた。

藤吉郎から墨俣に一夜城を築きたい、手を貸して貰いたいと必死の懇願があって、そういうことな

らと、小六と小右衛門は引き受けることになった。



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pig 20170410




                 <参考文献:戦国女人抄おんなのみち(佐藤雅美著)>

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『女城主・井伊直虎』 その13

『今川氏真の徳政令』

今川氏真が百姓の要請によって、直虎支配地である井伊谷とのその南辺の都田、祝田、瀬戸など

の都田川流域に徳政令を出したのは永禄9年(1566年)のことだった。

しかしこの徳政令は実施されなかった。直虎がこれを握りつぶしたからです。

井伊家は度重なる出陣や策謀の被害を受けて、人的損傷だけでなく、経済的にも大きな損失をこ

うむっていたのです。

直虎 005

そのため銭主と呼ばれる豪商から多額の借金をして、なんとか領主の対面を保ってきた。

だから徳政令によって、この銭主のもつ権利を放棄させることは、井伊家の財政をも揺るがす大き

な問題であったのです。

直虎としては百姓より銭主を守らねばならぬ必然性があった。

氏真の家臣・関口氏経が直虎に宛てた、棚上げされた徳政令の実行を迫る書状が残っています。

この督促の陰に小野但馬守がいるのです。

徳政令を仕掛けたのは誰あろう、本来ならば直虎を支えるべき年寄の小野但馬守だったのです。

理由は直虎が自分の自由にならないしっかりした城主だったからです。

頑固な直虎に我慢がならず、小野但馬守は駿府に出かけたことを示す手紙が残っています。

その手紙は、匂坂直興が祝田禰宣に宛てたもので、

「年末になり忙しく、この件は年越しとするが、年明け早々に凍結されている徳政令について具申

するつもりで、駿府に来ている小野但馬守と談合しているとことである。しかし、この件はそちら

では絶対に秘密にしておいてほしい」

というものである。

徳政令は小野但馬守と匂坂直興が祝田禰宣によって進められたことが、この手紙からわかります。

小野但馬守は祝田禰宣ら旧勢力と手を結び、今川氏の威光を借りて徳政令によって直虎を失脚させ、

井伊家乗っ取りを策謀したのです。



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pig 20170408




                <参考文献:女城主・井伊直虎(楠戸義昭著)>

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桜のあとに梅

『桜あとに梅をみて』

今年は桜の開花が早かったようですから、桜と一緒に梅を楽しむことができました。

20170402 袖ヶ浦公園 001

この日は、うさーずを連れての公園散歩でしたので、レンズはズームだけです。

20170402 袖ヶ浦公園 002

花の撮影は難しく、どう撮るのだろうと困ってしまいます。

20170402 袖ヶ浦公園 003

20170402 袖ヶ浦公園 004

天気がいいので、すいすいと気持ちよさそうです。

20170402 袖ヶ浦公園 006

20170402 袖ヶ浦公園 007

ニョキっと生えています。

20170402 袖ヶ浦公園 008

この公園は、ひと月前にも梅を撮りに来ましてけど、さすがにその木は違っていて、

こちらは遅咲きなのでしょうね。




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プロフィール

piglet01

Author:piglet01
Piglet01のブログへようこそ!!


平成26年6月30日に100城を制覇しました!

城郭ライトアップの撮影にチャレンジします。


「日本百名城塗りつぶし同好会」にも参加しています。

会員番号:908です。

日本百名城塗りつぶし同好会

パーソナルURLは、「リンク」の「日本百名城塗りつぶし同好会」からお願いします。


*参考文献:日本100名城公式ガイドブック、Wikipedia



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20140816 郡上おどり 002-1
I LOVE 郡上おどり













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